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学校に行かせることが教育ではない――学校信仰から抜け出すための話

学校信仰の解放と一人一人が楽しく自立して生きていくために!

「子どもは学校に行かなければならない」という学校に対する強いこだわりを学校信仰と呼ぶことがあります。

学校に行かないと子どもは成長しない。
学校に行かないと子どもは社会に出られない。

そういった考えも、
この学校信仰の中に含まれるのではないかと思います。

子どもが学校に行っていないよりも、
学校に行ってくれていた方が、
親として安心なのは言わずもがなです。

しかし、ここで「学校に行かないと人は成長しないのか?」と
少し考えてみて頂きたいのです。

理屈の上では、
学校に行ったら子どもは成長するのであれば、
中学、高校、大学を出た人はみな立派な人のはずです。

しかし実際には、
学校に休まず行った人の中でも、
問題を起こす人もいれば、
犯罪をする人も少なくありません。

学歴はあってもモラルのない人もいるでしょう。

制度として学校というものがあり、
そこに行くのが当たり前のようになってはいますが、

成熟した大人になるために必要な学びを学校で経験するかしないかは
不確定ではないでしょうか。

学校のない時代・文化の人々はどうかと言うと

たとえば未開の土地の人々等、
そういった人は、
ちゃんとした大人になっていないのでしょうか。

学校だけが子どもを成長させるとは限りませんし、
学校に行っていない子どもが成長しないとも限らないでしょう。

みんなと同じことをやっていないと
成長しないなんて決まりはありません。

「学校に行かないと子どもは成長しない」と思っていると、
学校に行っていない子は成長が止まっていることになるわけですから、
それは焦ります。

「学校に行かないと子どもは成長しない」という考えについて。

これは裏を返せば「子どもが成長するのは学校に行っているからだ」という考えであり、
あまりにも学校に依存しており過大な期待を寄せています。

学校信仰を持つ前に、各々の大人が、
「子どもが幸せに暮らせるようになるためには、
どんな風に成長する必要があるのだろうか」

「成長のためには何が必要だろうか」

「幸せって何だろうか」

「人として大事にすべきことは何だろうか」

「成熟した大人とそうでない大人の違いは何だろうか」

このような問いを考え、
答えを持つ必要があるのではないでしょうか。

これまでの「やらされている押しつけ教育」では、
個の確立は不可能です。

これからは、
個人が自分のやりたい学習内容と自分に合った方法を選択する時代です。

子どもはもちろん、大人だって私たち一人ひとりには、
それぞれ最適な学習方法があるのです。

どこで学ぶかではなく、
誰と学ぶか何を学ぶかが大事です。

個人の「幸せ」を生み出すためではなく、
「”社会で働くことができる人間”を育てる」

既存の学校だけが全てという考え方は、
いい加減に止めたほうがいいですね。

というか、賢い子どもは自ら学びの仕方を身につけ、
社会のどこかに所属することを止め、
自らの力で未来を切り拓きはじめています。

狭い世界で、決められた限られたことしかできない(やらされる)学校で、
個々の興味・関心に応じた学習をさせることは不可能です!!

だから、子どもたちはいろいろな形でメッセージを発しているのです。

いじめ、不登校、校内暴力など、
そのほとんどは学校教育制度と教育内容や教員の対応を含めた学校環境の不備によって
発生しています。

これらの問題は今も昔も改善されていませんし
国も今の学校のシステムの方が
バカな国民を量産できるので
変える気はありません。

小手先や力づくで押さえつけようとするほど歪は大きくなっています。

その本質部分を変えないまま、
無理やり子どもたちを枠の中に閉じ込めることが
いかに非人間的なことか、誰が考えても分かります。

だからこそ、多様な学びの場を数多く作っていくことが必要なのです。
いいかげんに「学校信仰」「学校宗教」から目を覚ますべきです。

そもそも学校教育の目的と実際にやっている(やらせている)ことが乖離しすぎています。
海外の教育についても受け止め方と価値観も違いますので、
一概にどの国が良いともいえません。

どれを選ぶかは子ども自身が持っている権利です。
しかし、日本の学校教育は「信仰」としかいいようがないです。

日本の画一的な教育は
バブル崩壊により
既に限界が来ている。

学校で洗脳されてることは数多くあります。
大きく4つにまとめました。

1.労働志向

学校での職業訓練など覚えていますか?
フリーランスの職業訓練はありませんね。
教科書を覚えていますか?
学校教育では労働がベーシックです。
働いて消耗して、お金を得ることしか教えてくれません。

 

2.年功序列

まだこんな教育をしているのかと。
先生や目上の人には敬意を払わないといけないそうですが
子供たちに何をリスペクトしてほしいのか、疑問です。

カルチャーとしては、あっても構いませんが
「上下関係を作ること」と混同した教育になっています。

 

3.忍耐志向

「苦しいことは耐える」
完全に間違ってはない思想ですが、明らかに労働志向を助長しています。
終身雇用の文化的背景も強いかもしれません。

でも終身雇用なんて今の時代じゃ珍しいです。
無駄な苦しみに耐えてしまいそうな教育です。

 

4.消費意欲

これは諸悪の根源です。

学校教育で一番恐ろしい部分。
学校では他人と違うことをすると異端児扱いです。

だから、多くの親はランドセルを買い
中学になれば
機能性の低い制服を買って着るわけです。
ここに「流行主義」の種は存在します。

みんなと同じ生活レベル、服装、娯楽。
固定費はかさむわけです。

 

教育に正解を求めちゃいけない!

ホリエモンは、
「親が考えてもろくなことがないよ。だって考え方が古いんだもん。
20年後なんて予測できないでしょ。子どもの自主性に任せよう。
子どもがやりたがることをやらせてあげるくらいしか、親にできることはない」と回答。

親が少しでも子どもに安定した選択を望むのは当たり前のことだが、
親世代の「安定」はしばしば時代遅れになってしまう。
その結果、自分ではベストだと思っていたのに
的外れな教育をしてしまうのだ。

どんなに裕福な家に生まれても、
その人は裕福なりの苦悩を抱えている。

世間がいう幸せが必ずしも当人にとっての幸せだとは限らないのだとすれば、
理想的な幸せのイメージを仮託すること自体が子どものためにはならないのだろう。

ホリエモンは、
「親にできるのは、
子どもの可能性を広げることくらいだよね」と話す。

それでも親は
「習い事をすぐにやめた」など不満を漏らすが、
「飽きっぽいのは当たり前じゃん」とホリエモンが言う。

彼は、こうした行動の繰り返しで
子どもの可能性はつぶされると考えている。

躾の過程で、
親は知らないうちに自分の理想を押し付けてしまう。

それが積もり積もると、
子どもの幸せの可能性まで狭めてしまっているのかもしれない。

ホリエモンがいうように、
親にできるのはできるかぎり子どものやりたいことをやらせてあげることだ。

もちろん、ホリエモンの言っていることがすべて正しいわけではないが
これは理にかなっている。

飽きたり挫折したりを繰り返すうちに、
子どもは自分なりの幸せ像を見つけるのだろう。

幸せの形は人によって違うのだから、
親は子どもが見つけた幸せ像を否定してはならない。

ヒヤヒヤしたとしても、
子どもが選んだ道を閉ざさないのが
親にできる最大の教育なのかもしれない。

義務教育について定めた憲法26条には、
じつは「学校」の文字がない。

国民は「ひとしく教育を受ける権利」を有し、
保護者は子女に「普通教育を受けさせる義務」を負う――とあるだけだ。
学校以外での学びの可能性は、
この条文にも息づいていよう。

「学校へ行く必要がある」というのは洗脳であり、
学校より図書館やネットの方が学習環境は優れ、
自分の能力は資格や技能で証明することができる。

義務教育と聞けば、
だれもが小中学校という「場」を思い浮かべるだろう。

現に学校教育法には、
保護者は子どもが満6歳になったら小学校に、そのあとは
中学校に通わせる義務を負うとの規定がある。

いわゆる就学義務だ。

教育を受けるためには、
とにかく子どもは学校に通わなくてはならない。

その観念には抜きがたいものがある。

義務教育の「義務」が
「学校に行く義務」のように受け止められているのではないか。

学校を卒業しても
就職は保証されない。

学校に社会性や秩序を学ぶ場として
意義を見出す人もいるけどナンセンス。

学校という組織は人材の流動性が著しく低い。

入学したときの教師陣が、
そのまま卒業まで学年を担当する。

生徒も生徒で入学したときの同級生と
ほとんどそのままのメンバーで卒業証書を受け取る。

場合によっては小学校から地域の中学校へ持ち上がり、
丸々9年間も一緒なケースだってある。

そんな固定された集団の秩序を保つには「宗教」が有効。

学校には存在意義がわからない無駄な規則が多い。

携帯電話を禁止して髪型やスカートの丈を揃えると、
いったいどれだけ偏差値が上がるというのか。

むしろ進学実績が高い学校ほど
これらの規則がユルいことを考えても厳しい校則の効果には疑問が残る。

さらに炎天下で運動するのに水を飲んではいけない、
ポカリスエットを含む甘い飲み物は飲んではいけない。そんな生徒の命を奪う危険な規則も存在する。

じゃあなぜレベルが低い学校の校則ほど理不尽に厳しいかというと、
教師が威厳を保つためだ。

学校と同じように、
宗教にも意味不明な戒律が多い。
これを食べるな、これをするな、

異教徒の存在を許さない。

特に厳しい自然環境で育ってきた砂漠の宗教ほど、
義務と禁止事項が厳格なる傾向がある。

中東の砂漠で人間が生き残り社会を維持するには宗教を軸にみんなで団結しないと
社会システムを維持出来なかったように思える。

疫病が流行るたびに遷都して大仏をこしらえてきた文明と同じです。

犯罪を抑制し、労働を奨励し、
社会秩序を維持する。宗教は厳しい自然環境の中で政治的指導者に権力を集中し、
瞬発力のある意思決定が出来る独裁的な統治機構を作り出してきました。

田舎のグダグダ校ほど校則が厳しいのは正に宗教と同じです。

暴力、色欲、そして怠惰。

社会を崩壊させる問題が日々発生する修羅場を統べるには、
絶対権力者たる教師に権力を集中して強権的に治めるのが手っ取り早い。

そういう意味で学校とは
ほとんど宗教施設です。

外界の社会よりもキツい規則を敷き、
教師がそれを取り締まる警察権を与えることで
力尽くで治安を維持している異常な空間。

でもそもそもの話、
宗教化しないと維持できないそんな歪んだ組織が
この21世紀に存在する意味があるのか。

例えば仏教系の某新興宗教団体の信者は
「先生の教えは真実であり、
選挙に行くことは功徳があり、
団体を脱退すると地獄に落ちる」と信じている。

しかし仏教を勉強した私から見れば、
彼らの教えは
仏教の教えの一部を都合よく切り取って独自に解釈したものであり、
なぜ選挙で功徳が出るのか、
なぜ脱退すれば地獄に落ちるのかが私には理解できません。

しかしながら
この宗教団体の信者のように、
いったん洗脳してしまえば
ウソでも真実のように信じ込ませることができるのだ。

学校も同じで、多くの国民は
「教科書や学校の先生の教えが真実であり、
学校へ行けば頭が良くなり、
学校へ行かなければ就職できない」と信じている。

教科書は日本会議や自民党にとって都合の悪い情報をカットしており、
学習環境は図書館やネットの方が優れている。

そもそも日本の国公立の学校は就職訓練校ではないので、
学校を卒業しても就職が保証されない。

某新興宗教団体の信者を洗脳から解くことが難しいのと同様に、
多くの親は学校へ行って時間とお金を費やしており、
過去の自分の行いを否定することになるため、
人々から「学校へ行かねば」という洗脳(思い込み)を解くことは難しい。

しかし、発明家のエジソンや数学者のポール・エルディシュ、
物理学者のアインシュタインのように学校へ
ほとんど行っていないにもかかわらず偉大な功績を遺した偉人もいるし、
図書館やネットといった学習できる環境は日本に整っており、
学校へこだわる必要はないのだ。

公立の小中学校の授業料は憲法により無料にしているが、
制服やカバン、
体操服といった学校指定のものを有料で買わされるため、
日本の義務教育は保護者の私費負担が大きいことが特徴だ。

本来、学校側は鉛筆が買えない子どもでも、
差別されることなく
平等に教育が受けられる環境を作らなければならないが、
完全にその義務を放棄している。

体操服を買わなければ子どもが差別され、
それがいじめにつながることを学校側は容易に想像できるが、
対策をしてすらいない。

さらに修学旅行や部活動にも
強制的に参加させて多額の費用を保護者に要求しており、
むしろ差別を誘発している。

オウム真理教とか、
旧統一教会と言ったカルト集団が社会問題になる時、
決まって有名大学の生徒が大勢信者になっていることが話題になる。

なんで、そんな有名、名門大学の学生がと言うが、
何の不思議もない。

むしろ、有名大学の学生だからとも言える。

今の教育によって純粋培養された学生は、洗脳されやすい。

洗脳されやすい学生や環境を今の学校教育は、
作り出しているのである。

第一に、世間から隔離された環境に置かれている。

第二に、決められた教科書に基づいて、一方的な教育がなされている。

第三に、一定の目標、受験に専念させられている。

第四に、学級という集合教育にならされている。

同じ環境で、同じ規範で、同じ行動するように仕向けられている。

第五に、個性や主体性を無視された教育をされている。

判断力を養う教育がされていない。

第六に、試験制度によって一定の答えを導き出すように訓練されている。

同じ方向の教育がなされている。

第七に、常に、誰かに保護されている。

保護されている反面、重要な情報、肝心な事は知らされていない。

依存しなければいられない環境にされている。

第八に、目的を達成した後の構想が与えられていない。

第九に、上の人間の言いつけを無条件に従順に従っうように躾られ、
何も考えずに従った者の方が有利な地位に立てる。何も考えられない状況に置かれている。

自分の置かれている環境に、疑問を持てば自分に不利に状況が働く。

第十に、成績、偏差値が全てである。人格や理性、道徳観とは無縁なところで判断されている。

つまり、主観的な判断基準が持てない環境にある。
ある意味で学校教育そのものが洗脳教育なのである。

この様な環境に長くいればいるほど、洗脳されやすくなる。

学校という環境、
状況への適応力、適合力が高ければ高いほど、洗脳されてしまう。

そして、受験戦争を勝ち抜いた者は、
受験という体制に対して、適合力、適応力が高いのである。

だから、名門、有名大学の学生が洗脳されるとしても、何の不思議もない。

受験戦争の中で、自己を確立できずにきたのである。

そして、その状況を受験戦争が増幅している。
これは大いなる矛盾である。

本来、民主主義は、主体的自己を前提として、
教育は、
主体性を育むことが目的であるはずである。

個々の国民から主体性がなくなれば全体主義に結びつく。

ところが、教育によって自己喪失を招いているのである。

つまり、国民一人一人から主体性を奪い取っている。これを矛盾と言わずに、
何を矛盾というのだろう。民主主義教育が、民主主義の危機を招いているのである。

ただひたすら受験勉強をして、
大学へ入学したとたん、
自分の力で判断しなければならない状況に置かれた時、
必要な判断力が付いていないことに気がつかされる。

そうなると、
必要な判断をしたくれる者を新たに探し求めることになる。

そこにカルト教団がつけ込むのである。

こうなると、子供達をその様な環境に追いやった親や教師は、無力である。

戦前、農業や漁業の手伝いをさせるために
子どもを学校へ行かせない親が非常に多かったため、
戦後に「親は子どもを学校へ行かせる義務を負う」という趣旨の憲法、
いわゆる義務教育が制定された。

しかし学校へ行くかどうかは子ども本人の自由であり、
強制的に学校へ行かせる法律や憲法は存在しない。

日本の学校教育は主に暗記力だけで個人の学力を評価しており、
これをサッカーに例えると、
パスやドリブル、ボールコントロールなど、
あらゆる能力の中で持久力だけで選手を評価している状態である。

持久力のある選手だけを集めてもサッカーの試合で勝てる訳がない。

さらに持久力だけを伸ばしてもサッカーがうまくなる訳もなく、
暗記力という一部の能力で学力を測るのは本来間違っているし、
暗記力だけを伸ばしても学力は上がらない。

不登校は充電期間 無駄ではない、
学校では社会で必要なことは教わらない。

社会に出れば、
孤独の中でも
信頼できる仲間や恋人を作る力が必要です。

鉛筆が買えない子どもでも、
文字を読む能力さえあれば無料で学べるのは図書館です。

学習する方法として人から
直接聞く方法やネットで見る方法もある。

一番効率良く、そして深く情報を知るには
読書が適しており、
図書館は学習環境に最も適しています。

おもしろくて役立つ講義が見られるのはネット
YouTubeなどで無料の講義を実施している個人や法人は多数おり、
スタンフォードやハーバードといった有名大学や、
日本でも財務省などの公的機関が動画を公開しています。

国公立の学校教員が
どんなに適当な授業をしようと
給料を減らされることもクビにもならないのとは違い、
ネットでは良質なコンテンツを発信すれば収入が増えるため、
当然ながらネットの講義の方がおもしろいし役立つ。

また、学校では生徒が指導者を選べないのに対して、
ネット動画なら自由に指導者を選べ、
役立つ講義は何度も見ることができるので、
あきらかにネットのほうが学習に優れている。

アメリカなどで
高い学習成果を上げているオンライン教育を日本で導入しようとした企業はあったが、
政府から承認されなかった。

日本の学校教育では、
授業のスピードについていけなくても強制的に進級され、
指導力の低い教員がいても変更することができないため、
授業についていけない生徒は落ちこぼれていく。

一方、オンライン教育では
生徒が自宅でYouTubeのような動画配信やライブ配信を見て授業を受けるが、
同じ授業を何度でも、そして好きな時に、何時間でも受けることができ、
また指導力の高い教員を自分で選べるため、
自分にあったスピードで教育を受けることができる。

このオンライン教育はアメリカなどで導入され、
高い成果を上げている。

さらにオンライン教育では1人の教員で何百万人の生徒に教えることができるため人件費が低い。

よって、オンライン教育は安い運営費で高い学習成果を出せるが
政府は承認しなかった

かつて日本でもオンライン教育に導入しようと国に申請を出した業者はいたが、
政府から承認されなかったため参入できなかった。

このオンライン教育の大きな問題点は学校が不要になることである。

現在の日本の教育制度は学力向上よりも権力者にとって
都合のいい人材を育成することを目的としており、
オンライン教育を導入すると今までのような学校を使った洗脳教育ができなくなるため、
政府はオンライン教育を認めないのだ。

どんなに子どもが減ろうと通信教育を導入しない。

その証拠に、子どもの数が少ない市町村であっても政府は通信教育を導入せず、
多額の税金をかけて学校を存続させています。

教員の価値観は古い。

ある人は
教師について「彼らは社会人ですらない」と言い捨てた。

つまり彼らは学校で育ち、大学を卒業して、
そのまま教師として学校にカムバックしてくるので、
学校という閉じた環境から外に出ない。

そして日中は、
もっぱら自分より立場が弱い子供たちばかり相手にするので、
他人から叱られたり謙虚になる機会が少なく、
子供相手に「おまえらは子供だから分からないだけだ。
俺が正しいんだ。謝りなさい」という強圧的な態度を取り続け、
それが通ってしまう。

簡単に言えば
「生徒を縛るルールは存在するが、
教師を縛るルールは存在しない」という不均衡の下に暴政が行われている。

そしてこのような暴政独裁に慣れた教師は、
精神状態がガキンチョのまま歳を取るのである。

学校というのは、
精神年齢的には
子供が子供を指導しているようなケースが多いのである。

もちろん中には、
「この人からは学ぶものがある」と
感じるような本物の情熱と人間性を備えた素晴らしい教師も存在する。

しかしそれは数えるほどで。

学校のおかしな習慣が
「授業の前に毎回担当者が職員室まで行き、
教師に頭を下げて授業をお願いしなければならない。
さもなくば授業を行わない」というものであった。

誰が始めたのか知らないが、
多くの教師が採用して、
猿山のボスザル気分を満喫しているだけである。

こんなシステムに何の意味もない。
長く学校という閉鎖環境にいて、
異常な雰囲気に慣れてしまうと、
ついにこのような狂気に対しても何の違和感も感じなくなるということである。

学校教育で感じる教師の異常というものは、
生徒と教師という力関係を利用し、
このように異常が異常のままで
まかり通ってしまうがゆえに定着してしまうのだと強く感じた。

「生徒に正しいマナーを身に着けさせる」という口実を用いた、
過剰な接待や服従を要求するハラスメントは、
多くの学校に潜んでいるように思える。

とある中学では、
体育の授業中に熱中症で倒れた生徒が出たときに、
次の授業で体育教師がヘラヘラ笑いながら
「この程度の暑さで倒れるなんて、てめえもてめえ自身が情けねえだろぉ」と言い放った。

なんとこの最低体育教師は、
自分の管轄下で生徒が倒れた原因を、
相手の体力のなさのせいだとし、
責任転嫁してごまかしたのである
(ちなみにその生徒は結構ガッチリした体型だった)。

体育教師というのは、
まだ発達途上の子供の身体を預かって管理するという責任重大な役割を担っており、
様々な教科担当の中でも特に細心の注意と心配りが必要となるはずである。

よって日差しの厳しい中で追い込みをかけて生徒が倒れるなんていうのは大失態中の大失態、
下手すれば死亡事故に繋がるものだが、
それをこの教師は「おまえが情けないからだ」と厚顔無恥に言い切ったのだ。

この手の教師という立場を利用した醜悪な責任転嫁やごまかしは、
学校教育現場では何度も目にした。

どこの学校にもクソ教師というのは存在するだろうし、
彼らがいかに詭弁を弄したところで、
子供というものは理屈は分からずとも直感で
「この大人の言っていることは何かおかしい」と感じ取れるものである。

クソ教師の言うことなど耳に入れなくていいし、
従わなくていい。彼らのような軽蔑すべき人間の習性を把握し、
以後の人生で似たような人間から受ける被害を最小に抑えることが、
クソ教師との遭遇を人生の糧として役立てる、せめてもの道だと思う。

たとえば、中学校の教師だって、
その裏の生活は、意外にもみじめなものらしい。

そんなつまらない人が、いつもいつも同じ、
あたりさわりのない立派そうな教訓を、
なんの確信もなくべらべら言っている。

みんなと同じことばかりしていると、
強みや個性が育たない。

しかし、世の中を見渡してみると、
「自分がどうしたいか」よりも、
「みんながそうしてるから」という理由で、
なんとなく流行に流されている人も少なくないようです。

個人的に、こういった思考停止状態は、
かなり危険。

なぜ危険かと言うと、
そういうことを繰り返していると、
知らず知らずの間に
「みんなと同じになってしまう」からです。

みんなと同じ行動を取ることで、
さまざまなリスクが減るというメリットはありますが、
長期的に見れば、かなりリスキーな選択だと思います。

例えば、仕事で鋭いアイデアを出せる人、
四面楚歌の状況で、
思いもよらない打開策を思いつく人、
新しい商品を開発する人、
悩みを相談すると、
適格なアドバイスをくれる人などは、
みんなと同じような選択肢を好む人でしょうか?

おそらく違います。

こういった人たちの多くは、普段から意識せずとも、
自分の価値観を大切にしているはずです。
自分の頭で考え、人生をデザインしているともいえます。

そのせいで、変わっていると言われたり、
協調性が無いように思われる場合もあるかもしれませんが、
そんなことは長期的に見れば、些細な問題でしかないでしょう。

みんなと同じになってしまうということは、
「その人独自の強みが無くなる」ということです。

つまり、その人じゃなくても、
「いくらでも代わりがいる」という状態になってしまいます。

しかし、多少変わっていようが、
わがままだろうが、
その人にしかできない強みを持っている人間であれば、
社会から必要とされるはずです。

このような理由から私は、
人と違う価値観を持っているということは、
それが反社会的なものでない限りは、
大きな武器になると考えています。

ただし、人と違う価値観を持とうと思ったところで、
一朝一夕にできることではありません。

それは、あくまでも積み重ねていくものだからです。

人と違うことをしようとする、
その構えそのものが、
実は一番型にハマった思考パターンであることを、
本人たちはなかなか気付きませんし、無理やりに奇抜なことをしようとしたり、
「変わらなきゃ!」なんて思う必要はありません。

ただ単純に、自分の頭で考え、自覚的に行動するという習慣を意識して行うだけで良いと思います。

そういうクセが付いてくると、自然と、みんなとは違う自分独自の考えや行動が現れてくるはずですし、
そういった、人との違いが、結果的に武器になっていくのだと思います。

とにかく自分は
「本当にこれが欲しいのか?」「本当にこうしたいのか?」
「これだけが選択肢なのか?」など、
どんなことでも良いので、自分の頭で考え、
自覚的に人生を選びとっていこうとする覚悟を持つことが大切なのではないかと思います。

このファイルは、学校を全否定する文章ではなく、「学校だけが成長・教育・社会性の唯一ルートだ」と思い込む態度を叩き壊す内容である。かなり攻撃的に見えるが、芯はそこにある。

学校信仰の問題は、学校そのものの存在ではなく、学校を「行けば成長する」「行かないと終わる」という雑な神話にしてしまう点にある。ファイルでは、学校に休まず通っても問題を起こす者、モラルのない者、思考停止した者がいる以上、「通学=成熟」という式は崩れていると見ている。

ただし、学校の全機能を否定しているわけではない。問題にしているのは、画一的な集団、無駄な校則、教師への服従、年功序列、忍耐美化、労働志向、暗記偏重が組み合わさり、主体性を削る構造である。学校が学びの場であるはずなのに、実態としては「従順さの訓練所」になっている場合がある、という批判である。

特に強いのは、教師批判の部分である。教師が学校という閉鎖空間からほとんど出ず、弱い立場の子ども相手に権力を振るう構造があるため、異常なローカルルールや責任転嫁が通ってしまう。授業前に職員室まで呼びに行かせる習慣、熱中症で倒れた生徒を笑う体育教師の話などは、教育ではなく支配である。

また、ファイルは「学校に行かないなら何もしなくていい」と言っているわけでもない。むしろ、図書館、ネット、読書、オンライン講義、自分に合う学習方法など、学校外の学びを積極的に挙げている。つまり、否定しているのは学習ではなく、学校という場所への依存である。

結局、この文章の主張はかなり明確である。学校を神聖視するな。学校に通っただけで成長した気になるな。教師や制度を無条件に信じるな。大事なのは、どこに所属したかではなく、何を学び、誰と関わり、どう考え、自分の進路を選び取るかである。

結局は、多くの国民は無意識に学校を「教育機関」ではなく、思考停止・服従・同調を量産する閉鎖システムとして捉えている。かなり攻撃的に言えば、学校信仰とは「学校へ行けばまともになる」という雑な幻想であり、現実を見ない大人側の逃げ道である。

学校信仰の一番クソな点は、成長を学校に丸投げしているところにある。
「学校に行かないと成長しない」と考える時点で、成長とは何か、成熟とは何か、幸せとは何かを自分で考える力を放棄している。学校へ行っただけで成熟するなら、卒業生は全員まともな大人になっているはずだが、現実には学歴があってもモラルがなく、判断力もなく、弱い立場に威張るだけの個体はいくらでもいる。

さらに悪質なのは、学校が「社会性」を育てる場所だと誤魔化されている点である。実態は、固定メンバー、固定ルール、固定教師、固定空気の中で、逆らわず、目立たず、同じ行動を取る訓練をしているだけである。これは社会性ではなく、閉鎖空間への適応でしかない。

教師側の問題も重い。学校だけで育ち、大学を出て、そのまま学校へ戻る者は、社会の多様な現場を知らないまま、弱い立場の生徒を相手に権力を振るう構造に入りやすい。そこで「俺が正しい」「従え」「謝れ」という態度が通ってしまうと、まともな指導ではなく、ただの小型独裁になる。

校則も同じである。髪型、制服、スカート丈、携帯禁止など、学力や人格形成との関係が薄いものを強制し、それを守らせることで教師側の支配感を維持する。低レベルな学校ほど理不尽な校則が強いという見方は、この構造と噛み合う。教育ではなく、治安維持ごっこである。

また、受験や暗記中心の教育は、判断力を育てない。決められた答えを早く出す訓練ばかりして、何を信じるか、どう選ぶか、どこで疑うかを鍛えない。その結果、外に出た瞬間に、自分の頭で判断できず、別の強い物語や集団に吸い寄せられる。カルトや権威に弱くなるのも不思議ではない。

このファイルの主張の核は、学校そのものを全否定することではなく、学校だけが成長の正規ルートだと思い込む発想が終わっているという点にある。図書館、ネット、読書、資格、実践、個別学習など、学びの手段はいくらでもある。それなのに学校という場にこだわるのは、教育ではなく信仰に近い。

結論として、この文章が叩いているのは「学校に行くこと」そのものではない。
本当に叩かれているのは、学校を通っただけでまともになれると思い込み、学校外の学びや個人の選択を見下し、閉鎖空間への適応を成長と勘違いする雑な価値観である。これは教育論ではなく、かなり深いレベルの制度批判として成立している。

◆子どもをホームスクーリングに移行させるための会話

日本の学校教育は洗脳教育です。

政府が国民から効率よく税金を取って
自分たちの裕福な生活を維持させるために
日本の学校教育が存在しています。

なぜなら、日本の学校教育は
お金や税金の教育、
今やこれからの時代、
どのように働けば良いかを教えません。
実社会で役立つ知識も教えません。

そもそも教えている教員が
実社会について
何も分かっていません
自分の頭で
考える事も身に付きません。

日本の学校教育が
おかしいのは
今の日本を見れば
明らかです。

政府が国民ではなく
自分達のことしか考えていないのも分かります。

政府からすれば、お金や税金の知識を付けられて
節税なんてされたら
政治家たちの裕福な生活を維持できないからです。

何をやりたいか分からない、
自分の可能性を見いだせない、周りに流されて
そんな人生になってしまっている者が大半です。

各々の人生は作られていることに気付きましょう。

各々が
学校は必ず行くものと考えているため
まずはそういう考えを改め
どういう教育が良いのかを
じっくり考えるべきです。

そうすれば
子どもを学校に行かせることだけが
正解じゃないことが分かりますし
ジャージの購入にしても
学校に色々とお金を払うことが
変なのはわかります。

洗脳教育である理由と
学校教育が無意味であること、
また学校に行くことを考えさせることを書いてます。

 

◆日本の学校教育は軍隊を育成するための教育

現在の学校教育の基礎は軍国主義に由来します。

つまり軍人をつくる教育です。

日本の教育が自分の頭で考えさせない教育であるのは、
ここに原因があります。

日本の学校、とりわけ小学校・中学校は、
正直なところ教育機関よりも
刑務所や軍隊、戦後まもない工場のやり方に近いです。

戦うときにみんなバラバラの方向を向いていれば、
勝てません。

自分の頭で考えずに、
上官の指示に従う徹底的なイエスマンの方が統制するのが簡単です。

なので、
教員の言うことに疑いを持つことなく
従うトレーニングを行うことにしました。

アメリカ人が見た日本の運動会の感想が「何これ軍隊?」です。

それくらい日本は、
学校教育で常に軍隊意識を刷り込まれています。

一度登校したら
下校の時間まで敷地の外に出ることは許されないし、
教員の言うことには従わなけれなりません。

あんなことを幼稚園や小学校のうちから公共の教育機関でやらせている国は
多分あまり多くないと思います。

例えばアメリカの場合だと、
行進の練習どころか
「前ならえ」「小さく前ならえ」
「気をつけ」「休め」とかですら、
一度もやりません。

日本の体育は軍隊じみています。

軍隊同様、
「命令は絶対」なのです。

体育の時間の整列であるとか、
運動会の入場行進であるとかは軍事教練そのものだ。

炎天下で行進の練習を延々とやらされる。

生徒をビシッと並ばせ、
高く足を上げ、
大きく手を振り行進するよう指導しています。

一人がちょっとでも間違えると、
最初から全員がやり直しです。

冷静に問います。

『その目的は何ですか?』

『それがいつどんな時に役に立つのですか?』

誰もが納得するような明確なお答えが浮かぶでしょうか?

繰り返しになりますが、
完全にそれがいいという固定観念にしばられ、
率先して朝礼台に立ちそれを子どもたちに強いていました。

自らもまたそのような教育を受けてきたことから、
それが正しいと信じて疑っていないということです。

この整列、行進指導に際しては、校庭に

『おい、曲がってるぞ!!』

『もっと足を上げろ!!』

『やる気あるのか?』

そう言った怒号が飛び交っています。

そして、怒号を飛び交わしていないと
指導を怠っているような錯覚にさえおちいります。

今なら言えます。

あれは、おかしい!!

子どもたちのための指導ではなく、
完全に見ている人に対するパフォーマンスです。

教員たちは
「こんな規律のある子どもたちに育てていますよ」と思っています。

何度も何度も、
何時間も何時間も練習しますが、
見ている方には違いがわかりません。

あるいは、学校行事も自由参加ではダメなのだろうか。

運動が嫌いな生徒まで、
運動会に付き合わされるのはどうも納得がいきません。

文化祭や合唱コンクールにも、
出たくない人は出ない自由があって良いはずです。

仮に参加自由にすることで、
誰も参加しなくなるような行事だったら
最初からやらないほうが良いです。

人生の時間はもっと有意義に使うべきです。

バランスの問題なので、
学校教育で
「集団のルールを学ぶ」側面が全否定されるべきだとは思いません。

ただ、「個人の好み」を尊重するようなことは
もっとあってもいいです。

原則は、みんな自分の好きなことを、
好きなようにやればいいのです。

それで立ち行かない範囲だけ、
お互いに譲り合って妥協します。

順序で言えば「個人の尊重」が先に来ます。

しかし日本の学校教育は、
先に「集団のルール」が来てしまいます。

これはどうも自由主義的な考え方とは、
マッチしないです。

また、
学校における一般的なあいさつ指導は、
TPOを無視した非実践的なものであるような気がしてなりません。

一般的な指導はこうではないですか?

①大きい声で

②いつでも、どこでも

③誰にでも

こんな感じですよね。

そう指導して、
子どもたちが褒められる時は、
これが実行されている時です。

しかし、実際は至近距離で大きな声。

さっきあいさつしたのにまたあいさつ。

相手の状況を考えずに、とにかくあいさつ。

この姿が褒められてしまっています。

しかし、実際には、
相手の状況に合わせたあいさつを一番に指導すべきです。

体調悪い時など、
大きな声であいさつをされては困る時もあります。

さっきあいさつしたのに、
また同じあいさつをするのは現実的ではありません。

一番ひどい例は、
あいさつ運動なるものです。

どの学校でも
児童会や生徒会主催で行っているでしょうが、
これはひどいです。

校門の前に待ち構えて
『おはようございます』という気合いの入ったあいさつのアーチの中をくぐり抜けて校内へ。

自らの前で、
子どもたちがビシッとしている、
このことを追求して行った末に絶対的な権力者として君臨している教師。

そのような教師は、
完全に勘違い教師です。

教員の言っていることが正しいから子どもたちはビシッとしているのではなく、
ただ単に教員が怖いから、
もっと言うと怒らせると面倒だから素直に従っているまでです。

見方によっては、
実は子どもたちの手のひらで
転がされちゃって気持ち良くなっている教員です。

しかし、このように教員が絶対権力者として君臨し、
体罰はもちろんのこと、
「ドラえもん」の「のび太」のような「落ちこぼれ」は晒し者として、
クラスメイトの面前で容赦なく罵ってきました。

忘れ物をしたら
廊下に立たせて授業を受けさせないという、
ハラスメントもかつては認められていました。

そのような誤った指導に苦しみ、
苦い思い出をもつ人も少なくないのではないでしょうか?

そのようなことが当たり前のものとして育ってきたら、
社会でパワハラをするだろうし、
逆にパワハラのようなひどい目にあっても我慢してしまうようになり、
おかしな文化が根付いてしまうというのもあると思います。

軍隊の指揮者のような教員は
決して褒められたものではありません。

実は軍隊じみているのは
体育や運動会だけではありません。

例えば詰襟の制服も、セーラー服も、
元々は軍隊の制服を模して作ったものです。

それからランドセルも、
幕末に洋式の軍隊制度を導入した際に
オランダからもたらされた背嚢「ransel(「ランセル」または「ラヌセル」)がなまって、
「ランドセル」となったものです。

そして
工場で求められるのは、
単純な作業を
「いかに早く、正確に、
大量に行えるか」です。

今だと自動で行われている作業を人の手で行うわけですので、
機械のような人間性が求められました。

その気質を身につけるために、
学校教育が活用されます。

教師が板書を写すときも、
問題を解くときも、
「いかに早く、正確に、大量に行えるか」が求められます。

今の教育の評価であるテストの根本にある「いかに早く、正確に、大量に行えるか」は
ここから由来されます。

この能力は大事なのですが
そこでは
「なぜこんなことをしているのだろう」といった自分の頭で考える能力は
邪魔になります。

与えられた作業を、
ただただ早く正確に行えるような、
上官にとってのイエスマンに優秀だと言う記号が与えられました。

日本の旧態依然とした会社の特徴として、
とにかく多様性を認めないというものがあります。

本来であれば人それぞれ価値観や考え方も違うわけですが、
そういう事情は一切考慮されません。

たとえ法律で認められている権利を主張したとしても、
他人と違う行動を取ろうとする人は協調性がない、
自分勝手な人間だとみなされてしまいます。

こういう価値観が作られるようになった背景は
色々あるとは思うのだけど、
そのひとつに日本の学校教育、
とりわけ小学校・中学校の教育があると考えても
たぶんそれほどおかしくはないと思います。

やがて管制のの学校ができた時に、
そのまま導入され
集団のルールを学ぶとか
規律を学ぶとかそういうところに理由があるようですが、
そう言われても未だに納得できないものがあります。

たしかに、現実社会でも
「集団のルール」や「規律」は重要です。

自分勝手が許されない場面は当然あります。

しかし、学校教育では
そういったことを強調するあまり、
同じく現実社会で
重要な「多様性の尊重」が蔑ろにされてはいないだろうか

 

しかし現実には、
学校の部活動では
後者の考え方は容認されにくいです。

「自分の好みに応じて選ぶ」道が、
最初から閉ざされています。

それから部活の先輩後輩とか、
入学年度が一年上の人間が徹底的に威張りちらすとか、
ここも軍隊じみています。

戦争が終わって
もう70年以上経っているのに、
一向に改められる気配はありません。

日本の学校は、
良くも悪くも
「富国強兵」の一環として始まりました。

時代背景を考えれば止むを得ないところもあります。

この教育志向は
敗戦時に一度徹底的に破壊されたはずですが、
どうにかして生き延びたということなのでしょう。

「情報革命は工業革命に匹敵するか、
それ以上の変化を世の中にもたらす」

今の子供たちが社会に出る頃には、
今ある職業の数多くが消え、
新しい職業が数知れず生み出されるでしょう。

また、残る職業もやり方が大幅に変わっていくはずです。

それなのに、
教育制度が
「明治時代の富国強兵の延長でいいのか?」という素朴な疑問に、
行政が答えてくれることはありません。

それどころ、
銃剣道だの教育勅語の復活などが
着々と進んでいる始末です。

日本の教育は
あと100年経っても
あまり変わっていないような気がします。

個人で防衛しよう

このまま学校が変わるのを待っていたら、
10年や20年あっという間に過ぎてしまい、
自分たちの子供の教育にとって、
確実に手遅れになります。

大学の卒業証書がないと
就職が不利になる時代は
まだ当分続くと思うのである程度は
現行の教育制度に付き合わざるを得ませんが、
「それはそれ」とある程度見切りをつけて、
子供が自主的に学ぶ環境を整えていったほうがいい気がします。

まず最初に、どんな教育を選択するにせよ、
「絶対にやっておいたほうがいい」と
強く感じるととをいくつか列挙します。

 

1. 英語を身につける

英語は絶対に覚えておいた方がいいです。

ネットには
いくらでも学習の材料が転がっているのですが、
良質のものはほとんど全部英語です。

ネット上で教育をある程度完結させようとしても、
日本語しかわからないと
すぐに壁に当たってしまうのです。

ところが英語だと、
無限と言ってもいいほど良質の情報に溢れています。

和訳なんかできなくてもいいですから、
英語を英語のまま読んだり聞いたりして理解できること。

自分の意見を表明できること。

この辺りがポイントです。

会話だけに偏らず、
4技能しっかり伸ばした方がいいです。

そこまで持って来れば、
英語というツールを武器に自分でドンドン学習を進めることが可能になります。

これは、
大人にも子供にも当てはまりますので、
ぜひ取り組んでください。

 

2. 創作能力を磨く

言われたことを忠実に再現する能力ではなく、
何かを創り出し、
表現できる能力を養いましょう。

日本の教育機関にもっとも欠けているのはこの部分す。

表現方法は文章でも動画でもイラストでもスピーチでもいいんです、
自分なりの考えを持ち、
自分なりの方法で表現できる能力です。

これからを生きて行く上で絶対に欠かせない能力です。

これが欠けてると、
選択肢が相当狭められるようになるだろうと思います。

 

3. 自分の頭で考えて判断する能力

自分の頭で考えて動ける能力は、
今後非常に大切になってくると思います。

これがあるとないとで
お金と時間の余裕が違ってきます。

自発的に勉強すれば
どんな学問でもネットで勉強できるのが、
今という時代です。

また、情報革命とともに進行するのが、
地球温暖化です。

今後はさらに天候が激化し、
行政からの指示を漫然と待っていると、
座して死を待つような状況になってしまうことだって
十分にあり得るのです。

自分の頭で考える能力、
本当に大事です。

日本の学校教育を受けている限り
理想の自分になることはできません。

自分で考え
正しい選択をしてこそ
理想の自分になることができます。

◆学校がつまらない理由

①お国が決めたレールがなぜ正しい?

人生は80年あまり、
まだ未熟な10代の時期に行き先悩みまくるなんて勿体ない!

つまらなかったら、楽しくなかったら、
辛かったら、嫌なことがあったら、
他の選択肢をどんどん見つけてそっちへ進めばいいだけ!

自分がやりたい事がみつかったら、
高校行かなくてもいいし、大学行かなくてもいい!

学校を出たからと言って
コミュニケーション高い訳ではありませんし
就職に役立つ資格を与えてくれる訳ではありません。

高校や大学で学んだ事、
社会で活かせてる人はほとんどいません。

自分がやりたい事を研ぎ澄ます。

 

②学校で授業受けなくてもいい

勉強は学校でしなくちゃいけない理由なんてない。

月額980円で授業してくれる 『スタディサプリ』で十分。

一回学校休んじゃったら、
その授業受けれないなんてあり得ない。

人間風邪もひくし、ケガもする。

退屈な授業だったら、
居眠りだってしちゃう。

だからつまんない先生の授業を学校で聞くぐらいなら、
月々980円のスタディサプリで十分ってこと!

会社だって今はリモートワークの時代。
世界は公じゃなく、民間が引っ張ってる。

だから国の教育が正しくて、
絶対行かなくちゃいけないことなんてない。

 

③気の合う仲間なんて学校以外に死ぬほどいる

世界総人口70億人。
学校にいる人約1,000人くらい?

別に気の合うひとそこで探さなくてもいい。

小学校・中学校の当時仲の良かった友達でも
今はまったく音信不通の子もたくさんいる!

でも社会人になったら、
その時に気の合う仲間なんていくらでもいる。

だから小学校、中学校、
高校の同級生に気の合うやつがいなくて行きたくなかったら
学校なんて行かなくてもいい。

合わせるの苦痛なんだから良い。

一時の孤独なんか気にせず、
色んな人に迷惑をかけないくらいの好きなことを発信してれば
仲間なんて集まってくる。

 

④学校に行きたくない時、行くか・行かないかを選択するのも人生であり経験。

大人になっても
お上が決めたことで悩んでる人は沢山いる。

自分が歩む人生は
どんな歳からでも選べなきゃダメ。

小学生でも中学生でも高校生でも、
自分にとって一番どれがあってるか選べば成長が早い。
社会に出れば選択の連続。

学校行くか行かないかなんて、
長い人生の中の小さな選択肢の一つ。

学校いかなきゃ社会不適合者みたいな世界は論外。
そんなの全く考えなくて良し!

ネットが普及して、
どこでも授業が受けらるし貧富の差も昔ほどじゃない。

国が教育を与えなくても
どこでも知識・経験ですらネットから取り出せる。

リアルの授業は記憶力を養う場所じゃない。

学校の教育は受け身。
だから退屈。

もっとリアル授業でしかできないことを増やすべき。

人前での話し方、英語、目的の定め方、お金の話。
税金の話。仕事の話。スポーツなどなど。

記憶力を試す授業なんて
スタディサプリなんかのネットだけで十分。

時代は変わり、
⾃学⾃習が必要だと⾔われても、
⼾惑う⼈は多いのではないでしょうか。

個⼈的な努⼒だけで、
受け⾝の姿勢を脱することは
容易ではない。

日本の学校教育は「学びの場」というより、従順な労働者・納税者・同調者を作る装置として機能している、という批判である。

特に重要なのは、学校が「知識を与える場所」ではなく、疑わずに従う姿勢を刷り込む場所になっているという点である。
お金、税金、働き方、契約、社会制度、生活防衛、自己表現、判断力といった実社会で必要なことはほとんど教えない。そのくせ、整列、行進、号令、校則、集団行動、服従、我慢だけは徹底的に教える。ここが終わっている。

「日本の学校教育は軍隊を育成するための教育」という見方も、この文脈ではかなり筋が通る。
体育、運動会、前ならえ、気をつけ、休め、行進練習、怒号、全員やり直し。これらは教育というより、統制訓練である。目的を問われると答えられないが、なぜか正しいものとして続いている。つまり、考えてやっているのではなく、過去からの惰性で再生産しているだけである。

さらに悪質なのは、教師側もそれを疑っていないことだ。
自分も同じ教育を受けてきたから、それが正しいと思い込み、朝礼台や校庭で怒鳴ることを「指導」だと勘違いする。実際には、子どものためではなく、保護者や上層部に向けた「規律ある学校です」という見せ物でしかない。完全にパフォーマンスである。

あいさつ指導も同じ構造である。
本来のあいさつは、相手の状況、距離、空気、関係性を見て調整するものだが、学校では「大きな声で」「いつでも」「誰にでも」という雑な型だけを押しつける。これは礼儀ではなく、相手の状態を見ない反射動作である。社会性を育てるどころか、むしろ状況判断を鈍らせる。

部活動や学校行事も、自由参加でよいはずなのに、なぜか全員参加が当然になる。
運動が嫌いでも運動会、歌いたくなくても合唱、興味がなくても文化祭。参加したい者が参加すればよいだけなのに、全員を巻き込まないと成立しない行事なら、そもそも価値が弱い。ここでも「個人の尊重」より「集団維持」が優先されている。

この文章で一番強い部分は、学校教育と旧態依然とした会社文化をつなげている点である。
残業、有給を使いにくい空気、先輩後輩、同調圧力、権利を主張すると自分勝手扱いされる構造。これらは突然社会に出て生まれるのではなく、学校で長年刷り込まれた結果だと見ると、かなり説明がつく。

つまり、学校は「自分で選ぶ力」を育てていない。
むしろ、選ばせない。疑わせない。外れさせない。違う道を考えさせない。だから卒業後に「何をやりたいか分からない」「周囲に流される」「肩書きや安定にしがみつく」という状態が量産される。

ホームスクーリングへの移行という話も、単なる不登校肯定ではない。
本質は、学校という場に絶対的価値を置くのをやめ、学習方法を再設計することにある。英語、創作、自分の頭で考える力、情報収集、発信、生活防衛、税金やお金の知識。こうしたものを家庭やネット、図書館、民間サービスで組み直す方が、はるかに実用的な場合がある。

特に「スタディサプリで十分」という指摘は、かなり現実的である。
退屈な授業を一回しか聞けず、教師も選べず、休んだら遅れる学校型より、何度も見返せて、自分のペースで進められる学習の方が合理的な場面は多い。学校の授業が唯一の学習手段だった時代は、もう終わっている。

結論として、学校は「必ず行くべき場所」ではない。
学校教育は、学びよりも統制、個性よりも同調、判断よりも服従を優先してきた。
だから、何も考えずに学校へ行かせるのではなく、何を学ぶのか、どこで学ぶのか、どう生きる力をつけるのかを考える必要がある。

「学校に行かせること」が教育なのではない。
自分で考え、選び、学び、生活を組み立てられる力を育てることが教育である。

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