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学校=刑務所×同調圧力×情報遮断で作られる「従順な個体」

「協調性」という言葉で正当化される同調圧力の正体

導入:なぜ「クラス」という仕組みがあるのか

日本の学校には「クラス」という仕組みがある。

表向きには、「協調性が大事」という説明がなされる。
協調性とは、本来「異なった環境や立場に存する複数の者が互いに助け合ったり譲り合ったりしながら同じ目標に向かって任務を遂行する素質」とされている。

つまり本来は、「違う者同士がどう関係を築くか」という能力のはずだ。

しかし現実の学校では、この言葉はまったく別の使われ方をしている。


展開①:「協調性」という名の強制

学校ではこう言われる。

「協調性が大事」
「チームワークが大事」
「周りと力を合わせて」

そしてそれが繰り返される。

繰り返されるだけではない。

最終的には、

「協調性がない奴はダメ」

という評価にまで発展する。

ここで何が起きているか。

本来の協調性は、

・違いを前提にする
・相互調整する

もののはずなのに、

学校では、

・同じ動きをする
・同じ行動を取る
・ズレを許さない

という方向に変質している。


展開②:「集団行動」という同調圧力装置

その典型が「集団行動」。

例えば、

「右向け!右!」で全員が一斉に動く。
一人でもズレると「やり直し」。

これは訓練としては分かりやすい。

だが問題はそこではない。

なぜそれが必要なのか、説明されないことだ。

目的が説明されないまま、

・全員一致
・ズレの排除

だけが徹底される。

これは訓練ではなく、

「ズレること=悪」という感覚の刷り込み


展開③:「部活に入れ」という圧力の構造

「部活に入れ」
「部活で得られるのは協調性」

こうした言葉も同じ構造にある。

ここでの「協調性」は、

・自発的な関係構築ではない
・選択の自由もない

ただ、

「集団に入って同じ動きをしろ」

という意味に変換されている。

つまり、

協調性ではなく同調性。


展開④:「周りもやっている」という支配

さらに強いのがこの論理。

「周りもやっている」
「みんな同じようにしている」

だから、

「同じようにしなければならない」

ここで起きているのは、

・正しさの基準が外部にある
・多数が正解になる

という状態。

つまり、

自分で判断しない構造


展開⑤:「協調性」という言葉のすり替え

この流れを整理するとこうなる。

本来の意味:

・違いを前提に協力する

実際の使われ方:

・同じ行動を強制する

完全に別物。

にも関わらず、同じ言葉が使われる。

これが何を生むか。

「従うことが美徳」という錯覚


展開⑥:同調圧力の完成形

このプロセスが繰り返されると、

・周りと違うことに不安を感じる
・合わせることが安心になる
・ズレることを避ける

つまり、

自発的に同調する状態

になる。

ここまで来ると、

強制する必要すらない。


整理:「協調性」とは何だったのか

ここで原点に戻る。

協調性とは、

「異なる者同士が関係を築く能力」

のはずだった。

しかし学校では、

・違いを消す
・ズレを排除する
・同じ動きをさせる

という方向で運用されている。

つまり、

協調性という言葉を使った同調圧力の正当化


結論:言葉の裏を見ない限り抜け出せない

「協調性が大事」

この言葉自体は正しい。

だが、

どう使われているかが問題。

・違いを尊重するために使われているのか
・同じにさせるために使われているのか

ここを見ない限り、

言葉に従った瞬間に同調圧力に組み込まれる。

「協調性」という言葉が出てきた時点で、

それが本来の意味なのか、
それとも都合よく使われた圧力なのか、

見極める必要がある。


そして、”みんなが会社員として就職しているから、お前も同じように・・・”

みたいなふうに、同調圧力パワーで会社員をどんどん増やしていきたい、というのが国の思惑です。

倫理的に正しいのかどうか分からないルールを守り、
周りの子供達と同じである事を評価されると、
しだいに周りと同じである事に居心地の良さを感じるようになります。

「何が良くて何がダメなのか」
「誰がイケていて誰がイケてないのか」
そういった価値基準の形成において
学校内の同級生たちや教師が大きな影響力を持ち、
逆にそういったことは
学校外の世界では通用しないこと多いです。

場合によっては両親たちから受ける影響力をはるかに凌ぐこともあります。

子供たち自身が、
自分がどういう人間なのか、
他の人たちからどう見られていて、
どう評価されているのか、
誰かに好意やリスペクトを示されたり
特別扱いされたりするに値する人間なのかどうか。

そういったことを学校内における人間模様・ヒエラルキーを通して、
子供たちひとりひとりが自覚していくようになります。

自分が通っている学校なんて、
全国に数千数万ある学校の中の1つでしかないという事実です。

ある学校内での自分の評価や人間関係なんて、
小さくて狭いローカルな世界でのことにすぎないわけです。

怖いのは、その世界を一般化してしまい、
学校の外の世界においても自分はそうだなんて思ってしまうことです。

そして、この先もずっとそういう人生が続いていくんだろうなという諦めまで出てくると本当にシリアスです。

「友達がいない」
「勉強はわからないしつまらない」
「毎日が退屈」
「いじめられて辛い」
「自分を理解してくれる人がいない」
「何もやりたいことがない」

学校生活において、
こんなふうに感じている子たちは少なくないと思います。

学校というのはある意味とても残酷な場所で、
かなり限定的な指標で人を判断・評価するような仕組みになっています。

「個性を伸ばす」なんて嘘でした。

教師は目上の人だから、
「丁寧な言葉で話せ」と教え込まれまれます。

「目上の人の言うことに従え、
疑問を持つな」と教え込まれます。

「一人の行動は危険だから、
誰かと一緒に行動を!」という謎の呼びかけ。

むしろ大人になったら一人行動多いし、
一人での行動に慣れさせたほうがいいでしょ。

そして夢を言おうものなら、
教師は「安定した職に就くべき!公務員おすすめ!」とか言って否定。

個人的にやってること言えば教師は
「もっとやることあるだろ!わからないのか!勉強しろ!あれしろこれしろ・・・」と。

自分の意見言ったら自己中扱い。

「髪染め禁止」「髪の長さこうしろ!」「あれ禁止これもだめ」という謎の規則。

教師「学校の評判が今、かなりいいです。
ちょっと変なことがあれば評判落ちるかもしれません。
みんなの行動で学校の評価が決まるので、
ちゃんと先生の言うことを聞いて従うように・・・」
いやいや、生徒は学校の評判上げるための道具じゃないぞ。

学校では、全員が同じ教科を「学習」する仕組みになっています。

小学校なら国語とか算数とか、
中学校なら国語、英語、数学、理科、社会、高校なら(以下略)・・・、というふうに、
決まっています。

つまり、
「とある個人」だけが持つずば抜けた才能だとかを伸ばすことはできないわけです。

そうして、「みんな同じくらいに、同じくらいに」という矯正をしていくわけです。
日本に住んでいれば、
誰もが通わなければいけない洗脳力の強い環境は「学校」です。

卒業するまでは、
家にいる時間の次に学校にいる時間が長くなります。

そのため学校で受ける影響は計り知れません。

特に幼少期に学校で受けたトラウマなどは、
大人になっても引きずる場合があります。

幼少期に学校の先生や友達から言われた言葉の影響で、
人見知りになったり、
引っ込み思案になったり。

このように、
幼少期は特に環境の影響を受けやすいので、
価値観の形成にも大きな影響を与えてしまいます。

学校や会社のように複数人が同じ空間にいる場合、
権力のある人物から同調圧力をかけられることが度々あります。

その同調圧力によって、
多くのメンタルをすり減らしています。

人によってはガッチリと洗脳されて、
同調圧力をかける側になります。

人によっては
「何かおかしい」と思いつつも反対意見を述べることができずに
メンタルをすり減らしていきます。

このように会社は良くも悪くも洗脳空間と言うことができるわけです。

四六時中同じメンバー、
同じ先生といるわけですからクラス内の人間関係が濃くなって、
友達を作りやすいのは事実です。

ただし、
あまりにも閉鎖的な空間すぎて
そのクラスの価値観=自分の価値観となってしまいやすいです。

しかも、
ずっと一緒にいるということは
お互いの嫌なところを垣間見る可能性もあります。

もし、ある生徒が
『あいつ、なんかうざくね?』と言い出したら
それは瞬く間に『いじめ』と化してしまうのです。

『いじめ』が発生してしまったら
『クラス』は閉鎖的なコミュニティのため逃げ場がありません。

学校のいじめはクラスに原因があります。

逆にクラスなんてなければ、
いじめは起こらないはずです。

クラスなんて子供の寄せ集めにしか過ぎません。

まして、学校が一方的に決めています。

嫌いな奴が出てくるのも当然です。

教師の言う「みんな仲良く」というのは不可能であり、
綺麗事でしかありません。

しかも、いじめる側の言い分は
「退屈しのぎ」や「ムカツクから」
ふざけているものばかりです。

馬鹿馬鹿しい。これならば
学校なんて行かない方がよっぽどマシですね。

不登校はいじめに対して一番有効なのかもしれません。

逃げるが勝ちとはよく言ったものです。

逃げるが勝ちとは、
無駄な戦いや愚かな争いなら、
避けて逃げるほうが、
結局は勝利や利益を得られるということ。

戦いを避けるのは一見卑怯なようにも見えるが、
戦うばかりが勝利への道ではなく、
時には逃げるほうが得策になるということ。

勝ち目のない喧嘩や、
買っても何の利益もない喧嘩なら、
しないほうが自分に有利な結果をもたらすという戒めの意味が込められている。

部活や塾などに行って
気を晴らすことができるかもしれませんが、
明日からまた同じクラスに行って授業を受けなければなりません。

しかも思春期真っ只中の生徒がいじめにあって
逃げ場もないという経験は
今後の人生に多大なる影響を与えてしまいます。

「クラス制」に慣れたことで、
辞めるという選択肢が見えないくらい視野が狭くなっているようです。

集団主義とは個人よりも集団に重きを置く主義です。

日本は、クラス制をはじめとして、
同一カリキュラム、小学校の登下校、学校行事の準備、
強制参加の部活などなど『みんな』で一緒に何かをやる機会がかなり多いです。

「みんなはちゃんとやってるのになんでお前はできないんだ?!」
「あの子はずっと会社に勤め続けているのになんでお前はすぐ辞めてしまうんだ」
「周りは結婚してるのにあんたはいつ結婚するの!?」とか、
他人と比較してどうのこうの言われますよね。

人それぞれ性格や悩みや課題、
メンタルの強さは違って、
個別に対応していかなければならないのにも関わらず、
なぜか個人の意見が軽視され集団の意見のみが尊重されます。

そして、集団に合わせなければいけないあの雰囲気。

『KY』という言葉もこの日本の集団主義という文化あってこそ
生まれた言葉でしょう。

みんなが行きたいところに行く
みんなが食べたい物を食べる
みんながかっこいいというものをかっこいいと思う
とりあえず世間で流行っている服を着てみる

そして、周りに合わせ、自分の欲求を押し殺しすぎた結果、
自分の本当にやりたいことや好きなことが分からなくなり、
気づけば自分を犠牲にして他人の為に生きる人生になります。

もちろん、実社会を生き抜くために
周りに合わせることが大切な時もありますが
全ての物事に当てはまるワケでもなく
「何を周りに合わせるべきか?」も
自分の頭の中で考えないといけません。

学生ほど
『こうしなさい』と強制されるわけではないのですが、
「集団に合わせろ」という無言の圧力があります。

みんなが残業していたら、
仕事がなくても残業しないといけない雰囲気
行きたくない飲み会にも参加しないといけない雰囲気
新入社員だから進んで雑務をやらないといけない雰囲気などなど、
挙げ出したらキリがないほど『集団主義』による無言の圧力があります。

日本の教育で
この『無言の圧力』に慣れてしまっている為、
側から見れば理不尽なことでも
社畜は『みんながやっているなら』と受け入れてしまいます。

学校以外にも集団生活を学ぶ場所がもっと存在するべきだと考える。

つまり、動物的な人間以外も
評価される集団で人格形成をさせても良いはず。

好きな人、良い人、
優れた人と自然な関係性を築き上げるのが
本当のコミュニティです。

学校のような強制的場空間は偽りのコミュニティを生みだし、
本来のコミュニティを破壊するよう作用する。

朝から晩まで同じメンバーと授業を受け、
お昼ご飯を食べ、学校行事では協力し合い、
まるで家族のような存在です。

『絆が深まっていいじゃないか!!クラス制の何が悪いんだ!!』と感じる方も
いらっしゃるでしょう。

しかしこのクラス制にはデメリットがあります。

それは
生徒の視野を狭くさせることです。

学校というのは一人が嫌な人、
一人だと寂しいと感じている人の方が友達を作りやすいのです。

そして、このタイプの人間は、
友達を作れていない人間を見て低く評価してきます。

大勢でワイワイ、ガヤガヤするのが好きな人は友達を作ることに意味はあっても、
そういうことが好きではない人が、
大勢の友達を作ることに意味はないです。

そういう人は逆に、
大勢の中にいることによって、
エネルギーを奪われてしまいます。

社会人になると友達が減ってしまうわけ

社会人になると学生時代の友達が減ってしまう理由は、
お互いの価値観と生活リズムにズレが生じてくるから。

学生時代の頃、
私たちが友達としてうまく付き合えたのは
いつも共に時間を過ごし、
共通の価値観を持っていたからです。

同じ志を持って同じ学校に入り、」
同じ授業を受け勉学に励み、

同じ環境下でいつも共に行動し、
目指すものも同じだったので、
友達として自然と仲良くなれたんです。

しかし学校を卒業して社会人になると、
それまで共に過ごしてきた仲間とは就職や引っ越しで
散り散りとなって、別々の環境で新しい生活を始めます。

中には結婚や出産で新しく家庭を持ち始める人もいます。
そして別々の環境で過ごしていくうちに、
お互いの価値観にどんどん変化が生じていきます。

だから久々に学生時代の友達と再会すると、
会話が少しずつ噛み合わなくなり
「あれっ…?」という違和感を覚えるわけです。

学生時代までは全員共通して盛り上がれる話題があったけど、
社会人になって価値観がズレていき、
共通の会話ができなくなったため
恋愛話などの無難な話題を選ぶようになったのでしょう。

更に社会人になれば、
一日の多くの時間を
仕事に割くようになるので、遊ぶ時間が少なくなります。

また、業種によっては休日が不規則になる場合もあり、
結婚や出産で既に家庭を持っている人は、
家族優先になります。
そのため、遊びに誘われても断ることが増えたり、
休日も疲れて遊ぶ気力がなくなったりします。
その結果、だんだん疎遠になって友達が減ってしまいます。

ずっと学生時代の友達と会ったりできるのは
スゴイことかもしれません。

そもそも人は基本的に孤独なのです。

人間は、一人で生まれ、
一人で死んでいくという言葉もあるくらいです。

この孤独を一人で解消することができない人間が、
人と会うことが好きになりやすいタイプの人なのでしょう。

そういう人は若い時は良くても、
晩年には非常に惨めさを感じていくようになると思います。

逆に言えば、一人でいても、
孤独を感じないタイプは、
世界が狭くなってしまいやすいと思いがちだが
それを自分で広げていくことができる力がある。

一人でも孤独を感じることがない、
広く自由な境地にいくことができるのだと思います。

結局のところ、
個によって持っているものが違うので、自分のタイプを見極め、
その性質を外的な環境(学校とか)から守りつつ、
自分で自分を育てていくしかないのでしょう。

学校でぼっちだからといって、
個としての価値が低いわけではないのです。

ただ、周りから低い評価をされることによって、
悪影響を受けてしまうので、
集団の中での一人になることは
不利になってしまいやすいのです。

集団の中にさえいなければ、
「一人でいることは嫌いではない」と思う人は多いと思います。

むしろ誰にも邪魔されないで、
「一人の時間を過ごせるというのは、
最高に贅沢なことだ」とさえ思います。

でも世の中には
「一人は寂しい」と感じてしまう人もいるのです。

そういう人の方が、
仲間を作るのは得意になりやすいのです。

そして仲間を作れていない者を見て、
勝手に低く評価してくるのでしょう。

林修も言っていましたが
「本当に大切な人だけ大切にしたらきっと幸せになれる」
といっていました偽りの自分を作り、
お互いに気力も体力も消耗します。

鍵になってくるのは
「子供の興味・関心を大切にする」という部分です。

今の学校は、
こういう部分をないがしろにしているのでしょう。

テストで人よりも良い点を取るためだけの無駄な勉強法を繰り返しているのだと思います。

勉強の方は大人になってから、
少しづつ自分のペースでしていくことによって、
楽しく感じることができるようにはなりましたが、
人づきあいの方は未だに嫌いなままです。

人と会いたいという気持ちがいっさい湧いてこないのです。

そうなってしまったのは
「学校に行きたくない」という自分の気持ちを無視して
学校に行き続けてしまったから。

学校の教育の何がおかしいかを考えた場合、
結局クラスという数十名の固定された枠組みの中に、
一年、最悪の場合3年間も固定したまま
10代の者達を詰め込む行為、
「それ自体が異常性を含んだものではないか」と考えるのです。

無論その長線上としての管理教育があります。

学校のクラスの連中と1,2年もいたせいで
本当に気が合う相手や助けとなる出会いを潰されることも
全然ある。

クソ環境にいると
クソを引き寄せる。

① 「協調性」は最初から“同調性”として運用されている

表向きの定義はこうなっている。

「異なる者同士が助け合いながら目標に向かう能力」

しかし現実の学校で使われる「協調性」は完全に別物。

・同じ動きをしろ
・ズレるな
・空気を読め

つまり、

違いを活かす能力ではなく、違いを消す能力

ここがすり替えの核心。


② クラスという仕組みが“序列と価値観の強制装置”になっている

問題の中心は「クラス」という構造。

・同じ年齢
・同じ空間
・長期間固定

この条件が揃うと何が起きるか。

・比較が固定化
・序列が形成
・評価が内面化

そして最も厄介なのがこれ。

そのローカルな序列を「世界の基準」だと錯覚すること

本来は数万校ある中のたった一つの環境に過ぎないのに、
そこですべてが決まるように感じてしまう。


③ 「周りもやっている」という思考停止トリガー

繰り返し出てくるこの論理。

「みんなやってるから」

これはただの説明ではなく、

思考停止のスイッチ

・理由を考えない
・正誤を検証しない
・従うだけになる

この時点で判断力は外部に委託される。


④ 教師の役割:価値基準の強制と人格の固定化

ここで起きているのは単なる指導ではない。

・「こういう存在だ」と決めつける
・「従え」「疑うな」と刷り込む
・反論を封じる

つまり、

評価者であり、同時に価値観の供給源

その結果、

・自己認識
・他者評価
・善悪判断

すべてが学校内部基準で形成される。


⑤ 校則・ルール=支配の簡易装置

「髪染め禁止」「長さ指定」などの規則。

重要なのは内容ではない。

・倫理的理由が曖昧
・説明がない
・ただ従わせる

これに慣れるとどうなるか。

「理由がなくても従う」習慣が定着する


⑥ 同一カリキュラム=才能の圧縮

全員が同じ科目を同じペースで学ぶ。

一見平等だが、実態はこう。

・突出を潰す
・平均化する
・個別最適を無視する

つまり、

「みんな同じくらい」を強制する矯正システム


⑦ いじめが発生する構造的理由

いじめは偶然ではない。

・閉鎖空間
・逃げ場なし
・序列固定

この条件が揃えば、必ず起きる。

さらに、

・誰かの一言が一気に拡散
・空気で同調

つまり、

構造的に発生する現象


⑧ 「逃げるが勝ち」が成立する理由

この環境では、

・戦っても構造は変わらない
・勝っても得るものがない

だから、

離脱が最適解になるケースがある

これは敗北ではなく、合理的撤退。


⑨ 集団主義の延長としての社会

学校で刷り込まれたものはそのまま社会に持ち込まれる。

・みんな残業 → 自分も残業
・飲み会 → 断れない
・雑務 → 進んでやるべき

これらはすべて、

学校で慣らされた同調行動の再現


⑩ 「友達」の正体:環境依存関係

学生時代の関係が崩れる理由も明確。

・共通環境が消える
・価値観が分岐する

つまり、

関係の多くは環境依存だっただけ


⑪ クラスが視野を狭めるメカニズム

固定メンバーで長期間過ごすと、

・外部との比較が消える
・価値観が閉じる
・選択肢が見えなくなる

結果、

「ここがすべて」という錯覚が完成する


⑫ 個の破壊と欲求の抑圧

同調を続けた結果どうなるか。

・やりたいことが分からない
・好きが消える
・他人基準で生きる

つまり、

自己の消失


⑬ 結論:クラス制度そのものが問題の核

この文章の最終的な主張はここに集約される。

「クラスという固定集団そのものが異常構造を生む」

・序列を作る
・価値観を固定する
・逃げ場をなくす
・同調を強制する

その上で、

・協調性
・集団行動
・ルール

という言葉で正当化される。


総括

全体をまとめるとこうなる。

  • 協調性という言葉が同調圧力に変換される
  • クラスが序列と価値観を固定する
  • 同調が内面化される
  • 社会でも再現される

そして最も重要なのはこれ。

環境が歪んでいると、その中での評価も歪む

クソ環境に長くいれば、
その基準が当たり前になり、
クソを引き寄せ続ける構造になる。

ここに気づけるかどうかで、
その後の選択は完全に変わる。

学校は刑務所!どれだけ膨大な無駄な時間を過ごしているか計算してみた!!

学校に行くと、どれくらいの無駄な時間を過ごすことになの

義務教育は日本では小学校・中学校をあわせて9年間ですが、
実際は高校まで殆ど義務教育のようなものなので
12年間という膨大な時間が費やされます。

これだけの年月をなぜ学校に費やす必要があるのかと考えたことも多いと思いますが、
これは至って簡単で人々を思考停止のバカな大衆にするためです。

2000日以上学校に通う意味とは。。。

義務教育は小学1年生、つまり6歳~7歳くらいからはじまるわけですが、
ここから12年間という歳月を学校に費やすとなると日数に換算すると
どのくらいになるのかを考えて見ましょう。

学校の登校日が月曜日から金曜日の5日登校として
1ヶ月間の登校日数が22日だとすると1年間で

22日(1ヶ月の登校日数)×12=264日です。

ここから春休み・夏休み・冬休みと祝日などをざっと差し引いても
平均して200日は
学校に通うことは間違いないでしょう。

1年間で200日の学校通学が12年間続くとなると、
学校への登校日数は2400日という計算になります。

中学校までの9年間に短縮しても1800日前後という計算になるわけです。

冷静に考えて、
読み書き計算などの基礎学力とやらを身に着けるために
これほどまでの長期間を学校に費やす価値が本当にあるのでしょうか。

そして、この2400日というものを1日あたりの学校に費やされる時間に換算してみたいと思います。

小学校は学年により授業時間などが大きく変わってくるはずですので一概にはまとめられませんが、
ここでは1年生から6年生まで全てを朝8時から午後2時までの1日6時間登校と仮定し見積もります。

6時間(学校での拘束時間)×200日(休日や夏休みなどを全て差し引いた日数)=
1200時間(1年間)

そして、1年間の拘束時間である1200時間が6年続くということは
1200×6=7200時間
・・・という計算になります。

実際は学校の行事や意に沿わない宿題・通学の準備なども含めると
これよりも更に大きな値になることは目に見えていますが、
ここでは甘く見積もって7200時間ということにしておきます。

そして次に中学校の3年間です。

中学生では平均して
1日の拘束時間をプラス2時間で平均8時間という形で試算してみたいと思います。

8時間×200日(1年間の登校日数)=1600時間

これが3回続くことになるので
3倍して4800時間という時間を中学校では拘束されることになるわけです。

もっとも実際は部活動などがあるはずですし、
進学校などは更に塾や予備校などもあるでしょうから
8時間どころでは済まないのは目に見えていますが、
ここも低めに見積もります。

そして、小学校の拘束時間を合わせると
義務教育期間は合計で12000時間という途方も無い時間が学校に費やされるわけです。

高校も中学校と同じく1日8時間拘束だと仮定するならば
12000時間+4800時間(高校3年間の拘束時間)=16800時間(12年間での拘束時間)

という計算になるわけです。

16800時間でも少なめに見積もっていると思いますが、
いかがでしょうか。

こんな途方も無い膨大な時間を、
なぜ学校で過ごさなければならないのでしょうか。

学校の授業が本当に価値のある物で、
将来につながるという実感が持てるようなものばかりならば納得できると思いますが、
そうでなければこれだけの時間を学校に拘束されるのは異常です。

勿論、目的を持って
意欲的に学校に通っている人や学校が楽しくて仕方が無い場所だから通っているという人は
別にいいと思います。

しかし、そうでない人にとっては
学校という場所はもはや単なる人生の浪費をする為の拷問期間でしかありません。

義務教育までの9年間だとしても貴重な人生の12000時間という膨大な時間を、
なぜ学校という場所に差し出さなければならないのでしょうか?

学校にそれだけの大量の時間を差し出す価値は本当にあると言えるかどうか、
今一度冷静に考えて下さい。

少なくとも人間が不老不死の生命体ならば話は別ですが、
今現時点では人の時間も寿命も有限なのです。

その有限な時間を、
1万時間以上もの膨大な時間を学校に差し出す必要があるかどうかを真剣に考えて下さい。

全日制高校のムダなところは
・みんなで同じ場所に行く
・決まった時間に通学する
・毎日通学する
・学校の先生との関わり
・他の生徒との関わり
などなど、めっちゃムダばっかりなんです。

このネット時代に、
何でこんな事やっているのでしょうか?

みんなで同じ場所に行くとか、
すごく窮屈ですよね。

せまい教室に40人を集めて、
閉じ込めるとか、
刑務所です。

「学校教育は12年の禁固刑のようなもので、
そこで教えられるのは悪い習慣だけだ。」

私自身も今になって思うのは、
なぜ自分は学校の決められた時間割や行事などに従わなければならなかったのかということです。

学校が民主的な空間だと言う人は多いと思いますが、
私の考えは全く違います。

刑務所に例えると非常によく分かるのですが、
そこでは看守と言う現場監督者と罪などを犯して
収容されている多人数の囚人が存在することは説明する必要は無いでしょう。

そして、囚人たちは刑務所内の規律に従うことを余儀なくされます。

* 起床時間

* 食事の時間

* 刑務所内の仕事・作業時間

* 休憩時間

* 自由時間

* 就寝時間

・・・こうした決まりごとを囚人らは
現場監督者である人間らの下で強制的に押し付けられるわけです。

日本の学校は
早朝(7時~8時半)から登校しなければならないのが大半でしょう。

私の場合、上記のような犯罪行為はありませんでしたが「無駄にキレる」、
「態度がでかい」、「一部の生徒への酷い扱い」の3つが多かったです。

親や上司もそうですが、目上だからといって正しいとは限らないし
敬う必要もありません。

目上だろうと何だろうとクソなものはクソでしかないのです。

役に立たない受け身な授業
学校には行かされているとか、
とりあえず行くというように考えている方が多いと思います。

実際に社会に出れば分かるのですが、
授業で学んだことの9割は役に立ちません。

残りの1割は漢字の読み書き、四則演算、確率の求め方。

学校の授業なんぞより、
趣味に取り組む方が自分を幸せにできます。

しかし、我々が学校と呼んでいる空間は
実は刑務所と同じで
囚人の自由意志などというものは全く問題にされず
いつどこでどんなことをするかは
全て刑務所の管理者たちが決めており
これらに非常に近いものがあるのではないでしょうか。

時間割という学校の管理者などが定めたカリキュラム・内容に従い、
決められたことだけを強制されるという現実があるのです。

教師に服従しない子供は
わがままで自己中心的な駄目なやつだという評価が例外なく
下されるのは目に見えています。

算数の時間でも何でもいいですが、
決められた時間割のときに授業内容とは違う科目を勉強していれば
教師に怒られるなどということは別に珍しくないでしょう。

教育委員会や文部科学省などが定めたカリキュラムを消化すること(つまり服従)だけが
学校に通う学生たちの存在意義という図式は、
どう考えても刑務所と何ら変わっていないと思います。

何の意味があるかも分からない授業や行事などの活動でも、
どんなに理不尽だと思うようなことでも、
児童生徒らが従わないという選択権は殆ど示されていません。

自由な発想力・個人の自主性などは刑務所で問題にされないでしょう。

それならば、
学校と呼んでいる空間も結局のところ何も違わないのではないでしょうか。

みんながそうしているから、
教師がやれと言うから従わなければならないという風潮が
ごく当たり前のように存在しているのが何よりの証拠だと私は考えます。

とにかく、
今現在学校に通っている人で少しでも学校はおかしいと感じている人は
「学校は刑務所ではないか」という意識を持って見て下さい。

刑務所、つまり強制収容施設と学校はとてもよく似ているのです。

この文章は単なる「学校批判」ではなく、かなり明確に
**「時間拘束 × 管理構造 ×思考停止誘導」**という三層構造を突いている。

① 「時間」という視点で見たときの異常性

まず提示されているのがこれ。

・2400日(12年間)
・16800時間(低め見積もり)

ここで言っているのは単純な長さではない。

「人生のリソース配分として異常」

という指摘。

しかも問題は時間の長さではなく、

・目的が曖昧
・成果が実感できない
・代替手段が存在する

この3つが揃っている点。

つまり、

投資対効果が説明されていない長期拘束


② 「刑務所モデル」の本質

比喩としての刑務所ではなく、構造的に一致している点を見ている。

共通点:

・時間管理(起床・行動・終了)
・行動の強制
・自由選択の制限
・空間拘束

さらに決定的なのはこれ。

「意思決定権が本人にない」

・何を学ぶか決められない
・いつやるか決められない
・やらない選択がない

この時点で教育というより、

管理システム


③ 「民主的空間」という建前の崩壊

学校はよく「民主的」と言われる。

しかし実態は、

・ルールは上から一方的に決定
・拒否権がほぼ存在しない
・異議は評価低下に直結

つまり、

形式だけ民主、実態はトップダウン管理


④ 授業の価値問題:なぜ「9割無駄」と感じるのか

ここはかなり重要な論点。

単に内容の問題ではない。

・受動的(聞くだけ)
・選択不可
・目的不明

この3点が揃うと、

「価値があっても価値として認識されない」

結果として、

・覚えても使わない
・意味が分からない
・記憶から消える


⑤ 「従うこと=評価」という報酬設計

学校の評価軸は明確。

・指示に従う
・カリキュラムをこなす
・逸脱しない

これにより何が起きるか。

服従が最適戦略になる

逆に、

・違うことをする
・自分で進める

これらはマイナス評価になりやすい。


⑥ カリキュラム=服従テスト

文部科学省や教育委員会のカリキュラム。

表向きは教育内容だが、

実態はこうなる。

「決められた内容をどれだけ従順に処理できるか」

つまり、

・理解ではなく消化
・思考ではなく追従


⑦ 「選択肢の欠如」という核心問題

刑務所との最大の共通点はこれ。

「やらない自由がない」

・授業拒否 → 問題児
・従わない → 評価低下

この状態では、

自由意思の有無は問題にならない。


⑧ 「学校に従う理由」が存在しない

文章中で繰り返し出ている疑問。

「なぜこれをやるのか?」

ここが説明されない。

・目的不明
・理由不明
・代替不可

それでも従わせる。

つまり、

理由ではなく構造で従わせている


⑨ 「目上=正しい」という幻想の破壊

ここも重要なポイント。

・教師
・親
・上司

これらは立場であって、正しさではない。

しかし学校では、

「上にいる=正しい」

という前提が強制される。


⑩ ネット時代との完全な不整合

現代はこうなっている。

・知識は無料で取得可能
・場所に縛られない
・個別最適が可能

それなのに学校は、

・全員同じ場所
・同じ時間
・同じ内容

つまり、

時代と構造がズレている


⑪ 結論:「教育」ではなく「統制」

ここまでを統合するとこうなる。

学校がやっていること:

・時間を拘束する
・行動を統制する
・思考を制限する
・従順性を評価する

これは教育ではなく、

統制と管理のシステム


総括

この文章の核心はシンプル。

「これだけの時間を強制的に拘束するだけの合理的説明が存在しない」

そしてさらに踏み込むと、

・目的が曖昧
・自由がない
・評価が従属基準

この3つが揃った時点で、

教育というより、

強制収容型の学習環境

になる。

「学校は刑務所ではないか」という問いは比喩ではなく、
構造を見たときに自然に出てくる帰結。

学校ではお金・税金について教えることはない

お金を稼ぐという行為は…
「誰かの役に立つ」
「社会に価値を提供する」
「誰かを喜ばせる」ことで成立します。

学校というのは
お金について全く教えません。

代わりに根拠の無い妄想(お金のことを考えることは悪いこと)を押し付けています。

それを知らずに社会へ出れば、
無知と無力に足元を見られて支配者によって
一生搾取されて悲惨な人生を迎えます。

このように法律やお金のことを学校で教えないのは
支配者にとって本当に都合がいいんです。

そしてお金のことを教えないでバカを作りだすといった都合の悪いことは
わからないように隠してあるんです。

世を支配した人間が自分に都合のいい社会を作ろうとするのはいつになっても変わりません。
現在だって例外ではありませんよ。

お金についての勉強
世の中で生きていく以上、
一生付きまとうのが「お金」です。

世の中にいるほとんどの人達は、
お金について、
あまり深く考えたりする機会がなかったかと思います。

しかしですね・・・
お金についてよく理解していないせいで、
無駄遣いをして借金をしてしまったり、
安易にお金を借りてしまったりする人が多いです。

また、「世の中全体で、
お金がどのように動いているのか?」などと言ったことをよく知らないせいで、
無意味な貯金をしてしまったり、
「投資」することの重要性を理解していなかったりと、
「いいお金の使い方」も理解していなかったりするわけです。
このようにお金というのは、
生きていく上で、
きっても切り離せないものであるわけです。

学校では、
お金について全く触れようともしないですよね?

ではなぜ、
「お金のことについて勉強する機会がないのか?」というと・・・
国民全員がお金を上手く活用できてしまっては、
国のトップが困るからです。

例えば、仮に国民全員が、
「自己投資をしてお金を増やす」ということを知ってしまえば・・・、
いろんな情報を学習していき、
個人で働けるスキルを身につけようと考えます。

そうすると、
会社員として働く労働者が減ってしまうわけですが、
国としてはそういった事態は困るわけです。

また、消費者側の視点からみても、
自己投資の重要性を国民全員が理解していれば、
パチンコや宝くじなどのギャンブルの利用者が減ってしまいます。

ちなみに、宝くじなんかは、
国の財政政策のうちの1つですので、
宝くじを購入する人がいなくなれば、
財政政策が破綻してしまいます。

このことから、学校では
「お金のこと」について、
教えてくれる機会がないわけですが、
明らかに意図的に教えていません。

また、学校では、
「働いてお金を稼ぐということの重要性」を教えくれる機会がほとんどないです。

学校で教えてくれることといえば・・・、
国語や数学といった「学問的なこと」くらいです。学校以外でも
参考書を購入して
親子二人三脚で学べます。

大人になって生きていく上では、
「仕事」も「お金」と同様に大切です。

なにせ、仕事をしなければ、
お金を稼ぐことはできず、
お金がなければ、生活することはできないわけですからね。

そして、仕事は何も会社員として働くことだけではありません。
自分でビジネスを立ち上げて、
「商売」を始めて、
お金を稼ぐこともできるわけです。

それと
「税金」についてです。
この税金ですが、
実は会社員として働き始めたとしても、
あまり勉強する機会がないわけです。

なぜかというと・・・
会社側が税金の計算をして、
給与から税金を引いたものを、
そのまま給料として振り込んでいるからですね。

しかし・・・
事業者として活動している側からすれば、
税金に対する意識は自然と高くなります。

なぜなら、自ら確定申告しているわけなので、
下手をすれば、膨大に搾取されてしまう可能性があるからです。

会社員として働いている人達は、
ただ単に差し引かれているとしか捉えていない人が多いようですが、
・なぜ、その金額が税として差し引かれるのか?
・使い道はどうなっているのか?
を理解できず、
そうなると、単純に給料から抜かれていることになってしまいます。

確かに、税金については、
難しいところもあります。

学校では一切触れることはないですし、
おそらく、学校側で教えない方が得をする人達がいるからだと、
個人的に思っています。

国家政策としては、
お金や税金について、
そして、
国の法律やルールについて学習する機会を与えないことで、
国の既得損益を守ろうとしているのだと思います。

確かに、日本は資本主義社会ですので、
そのような構造になっていてもおかしくはないでしょう。

また、
「企業に貢献する労働者を育成する」というのは・・・
商売やビジネス、
投資活動などについて
学習する機会を与えないことで、
企業に勤める優秀な人材を養成し、
会社を無理にでも存続させようとしているのだと思います。

学校に通う者達が皆、
同じ時間に登校し、
同じ科目を授業で勉強し、
何年も同じクラスで集団行動を共にすることで、
会社で従順に働ける人材を養成しているわけですね。

このように、日本の学校は、
純粋に教育をしているのではなく、
「国のトップの思想」も混じっている、
洗脳的な教育であると言えます。

なので、
学校が社畜養成所と言われるのは、
仕方がないかと思います。

世の中の多くは、
それが日本社会というものなのだと、
常識であるかのように捉えているわけです。

ですが、
そんなことが常識であると、
誰が決めたのでしょうか?

社会人との接し方や仕事への責任感、気配りなど、
学校では教えてくれないけれど
アルバイト先で学べることは結構あるもの。

責任感といった気持ちの部分からお酒の知識まで、
職場によって
様々なことを学べるのがアルバイトの良い所です。

今のアルバイトをつまらないと感じるのも、
「ここでこんなことを学べている」と考えると、
仕事が楽しくなるかもしれません。

国の借金は
国民が銀行に預けているお金から借りている。

細かいこと言うと、
それ以外の場所からも借りているけど、
少なくとも義務教育は教えられたことがありません。

学校によるかもですが、
高校でも教えられることはなかった。

他に、税金についてです。

税金は大事です。

誰もが納税します。

それなのに、税金がどういう仕組みで、
「どういうふうに使われているのか」などといったことは、
少なくとも義務教育ではほとんど教えられません。

教えられるとしたら、
「こんな税金があるんだよ~」くらいです。

小学校くらいまでは、
生き生きとして将来の夢を語ったものです。

ですが、中学校・高校となっていくにつれて、
だんだんと「将来の夢」を言わない人が増えてきたように感じます。

将来の夢を言っても頭ごなしに否定されたりだとか、
学校によって押し付けられた常識によって
「この将来の夢はダメ、ちゃんと将来考えなきゃ」とか思ったり・・・。

つまり、「将来の夢を持たない」というより
将来の夢を潰された、といったところでしょう。

もともと持っている「将来の夢」を言えなくなっている、
「曲げるようになってきているので?」と思います。

人生の目的が
「生きるために生きる」というよくわからないものになってしまいます。

「生きるために生きる」という状態はつまり、
ゴールを決めないで走っている状態に近いのですなんとなく学校に行き続け、
なんとなく会社に行き続け、
なんとなく人生を生き続けるようになってしまいます。

そういう人生を歩みたいと思う人はいないはずです。

だからこそ、そんな人生を歩まないためにも、
自分の心の声を無視してはいけないのです。

ではそうならないために必要なことはなんでしょうか。

必要なのは自分の興味を知るこり、
いろんなことを知ることです。

それよりも一番ダメなのは、
学校でやりたくない勉強をしすぎて、
学校を卒業すると同時に、
勉強することまで卒業してしまうことです。

一生、やりたくないことをして生きていってしまうことです。
これが学校に行き続けることの弊害でしょう。

本来、勉強というのは楽しいもののはずなのです。

それが興味のない勉強を長時間してしまい、
ウンザリして、学校を卒業と同時に勉強することまで
卒業してしまいやすいのだと思います。

日本は所得税45%近く、住民税10%と世界トップクラスに高税率をかけています。
さらに住民税だの事業税だの固定資産税だの自動車税だのガソリン税だの、
無数の種類の税金によってすさまじい負担をかけています。

増税の目的は老人の社会保障を持続させる時間稼ぎに過ぎない

そして若者が増税で救われない最大の理由が増税された税収の使われ方です。

もうわかっているかもしれませんが、
増税分の税収はほぼすべてが社会保障費に使われます。

例えば政府の2010年度予算を見てみると、
社会保障費はおよそ27兆円だが、
この他に厚生労働省の所管する特別会計を含めると
社会保障関係費は111.6兆円。

その70%以上が年金・老人福祉に使われているのです。

増税の税収もほぼすべてがこの老人への社会保障費に使われるのも確実です。

さらに日本では60歳以上の老人が国の資産の3分の2を握っています。

景気が上がらないのも老人が金を使わないからです。

にもかかわらず
金持ちの老人にさらなる保証を増税で加えるのです。

無論、増税を負担するのはお金がない若者たちです。

若者の多くは
「働いても働いても全然楽にならない」 と思っているでしょう。

それは景気が悪いだけではなく、
毎年どんどん税金や保険料を老人のためだけに取られまくっているからです。

増税すれば貧乏な若者も助かるなんで大間違い、
増税すればますます若者の生活が苦しくなるだけです。

「社会保障費は社会全体のためだ。
今は若者たちが負担が大きくて苦しくても
将来歳をとったら社会保障に頼る時期がやってくる。
社会保障は将来の自分のためなのだ。」
このように言って諭してくる老人専門家がいます。

いつ財政不安が起こってもおかしくない状況です。

そして年金は当然として、
国民健康保険や社会保険制度も毎年すさまじい赤字で
すでに破綻状態です。

日本のあちこちの制度がもはや税金で補填しないと
やっていけない自転車操業状態なのは誰の目にも明らかです。

それを支えているのが国債を発行して
調達した天文学的な借金ですが、
先にいったようにいつ財政不安が起こってもおかしくないです。

日本国債CDSも徐々に上昇しており、
海外のヘッジファンドには
日本に狙いを定める声が多くなって来ました。

つまりそう遠くない先に破綻することは間違いないのです。

専門家たちもそれをわかった上で言っているのは、
若者のことなど考えておらず、
とりあえず目先の老人の保証だけ守っていればいいやと思っているからです。

彼らも老人ですし、
彼らにお金を出しているのも老人だし、
政治家も老人だからです。

増税の目的は老人の社会保障を少しでも
持続させることは明白であり、
今の若者が老人になる頃まで社会保障がもっていられるわけありません。

すでに制度自体が破綻している年金や保険を支えるのはドブに金を捨てるようなもので、
すぐに限界が来ます。

しかしなかなかデフォルトすることもできずに
大増税と最悪の景気の中をずるずると進んでいくことでしょう。

なぜデフォルトできないのかといえば、
綻すると老人が一番困るからですね。

老人を重視する政府はずるずると先送りを続けて若者へ負担を押し続けることでしょう。

無論、その時代は若者は働いても働いても毎年税金が上がっていくために、
働きバチとか、労働奴隷のような状況が続くでしょう。

次々と増税されていくので時間はありません。

天皇の戦争犯罪に関する記述や 高専卒業し隊-将来、
平成生まれは年金をもらえない可能性が高いです。

年金のずさんな管理や運用は教科書で掲載されていない。

もし教科書に年金のずさんな管理や運用を掲載すると

1. 今の若い世代が年金を払わなくなり、バラマキ政策ができなくなる

2. 今の若い世代が、彼らにとって不公平な制度を作った自民党に投票しなくなる

という事態が起こるため、自民党にとって都合の悪い情報は、
教科書検定でカットできるようにしている。

むしろ「北方領土は日本固有の領土」や「昭和天皇は戦争に直接関与していない」、
「自衛隊の存在は合憲である」といった自民党や神社本庁、
日本会議にとって都合の良い情報を流せる広報誌としての役割を教科書は
担っている思考力を身につけさせないほうが、甘い汁を吸える人たちがいるのです。
それは政治家や富裕層などです。

何の疑問も疑いもなく、税金を納める人。
何の疑いもなく、四六時中働いてくれる人。
そんな人たちがいたほうが操りやすいですよね。

逆に思考力をもった人たちが沢山増えてしまうと、
どうなってしまうのでしょうか?

隠してきた不正を暴かれ、
都合よく働いてくれる人が少なくなれば、
甘い汁を吸うことができなくなってしまいます。

頭の良い人が増えてしまうと困るのが今の日本社会です。

少なくとも自分から行動を起こさない限り、
誰も助けてはくれません学校という場所が子供の個性を無視し、
画一化された教育をする場所であり続ける限り、
そこで勉強する意味はないと私は思います。

ただ、その代わりに自分で勉強をしていく必要はあります問題があるのは、
親や、周りに流されて、訳も分からず
「とりあえず勉強してテストで良い点を取らなければならない」という「〜しなければならない」という意識で
勉強し続けることなのです。

なぜなら、この意識で勉強をし続ける限り、
学校を卒業すると同時に、
勉強する事まで卒業してしまいやすいから。

そして本当に自分にとって必要な興味のある勉強に出会わないで、
「興味のない仕事をし続ける」というような不幸な人生になってしまいやすいのです。

この文章はかなり広範囲に見えるが、軸は一つに収束している。
**「学校が“生きる上で最も重要な領域(お金・税・制度)を意図的に外している」**という構造批判だ。

① 「お金を教えない」という一点に集中した異常性

まず最もシンプルで強烈な矛盾。

・生きる=お金が必要
・社会=お金で回る

にも関わらず、

学校はそこをほぼ教えない

ここで発生しているのは、

重要度と教育内容の乖離


② 「お金=悪」という価値観の刷り込み

単に教えないだけではない。

・お金の話は卑しい
・考えるのは良くない

こういった空気を作ることで、

思考そのものを抑制する

これはかなり巧妙で、

・知識を与えない
・興味も持たせない

という二重制御。


③ 無知状態のまま社会に出ると何が起きるか

この構造の帰結は明確。

・借金
・無駄遣い
・税の理解不足
・資産運用の無知

つまり、

ルールを知らない状態でゲームに参加させられる


④ 税金のブラックボックス化

会社員の場合、

・給与から自動で引かれる
・計算を自分でしない

この仕組みによって、

・なぜ引かれるのか分からない
・どこに使われているか分からない

結果として、

負担の実感が希薄化する


⑤ 「会社員モデル」が最も管理しやすい理由

ここで文章の核心に入る。

・税金は会社が処理
・収入は固定
・行動は管理

つまり、

把握・統制しやすい個体になる

逆に、

・自営業
・投資
・複数収入

になると、

・税理解が必要
・判断が必要
・管理が難しい


⑥ なぜ教えないと都合がいいのか

構造として見るとこうなる。

・金融リテラシーが低い
→ 労働依存が高まる

・税理解が浅い
→ 負担に気づきにくい

・選択肢を知らない
→ 現状維持に留まる

つまり、

「知らない状態」が最も安定した状態になる


⑦ 社会保障・税負担の構造に対する認識の欠如

文章後半で触れている部分。

・税収の多くが社会保障へ
・高齢層への配分比重

ここでの問題は賛否ではなく、

理解されていないこと自体

・負担はしている
・しかし構造は知らない


⑧ 情報統制と教育内容の関係

指摘されているのはこれ。

・都合の悪い情報は扱われない
・都合の良い情報は強調される

これは陰謀ではなく、

カリキュラム設計の性質

・何を教えるか
・何を教えないか

この選択自体が、

思想のフィルタ


⑨ 思考力と支配のトレードオフ

ここが最も攻撃的で本質的な部分。

・考える個体が増える
→ 構造を疑う

・考えない個体が多い
→ 維持される

つまり、

思考力はシステムにとってリスクになる場合がある


⑩ 「勉強嫌い」が量産される仕組み

さらに重要なのはここ。

・興味のない学習を強制
・長時間拘束

その結果、

「学ぶこと自体が嫌いになる」

そして、

・卒業=勉強終了

という状態になる。


⑪ 夢が消える構造

・否定される
・現実路線に修正される

これを繰り返すことで、

自己選択が封じられる

結果、

・なんとなく進学
・なんとなく就職


⑫ 最終的に出来上がる状態

ここまでの積み重ねでこうなる。

・お金の知識がない
・税の理解がない
・選択肢を知らない
・思考が弱い

つまり、

環境に流されるしかない状態


⑬ 結論:教育の空白がそのまま支配構造になる

この文章の最終的な主張はこれ。

「教えないこと自体が機能している」

・教えれば自立する
・教えなければ依存する

そして、

・依存する個体の方が扱いやすい


総括

全体を一行でまとめるとこうなる。

「学校は重要な知識を与えないことで、結果的に“選択できない状態”を作っている」

そしてその状態で社会に出ると、

・何も疑わない
・仕組みを理解しない
・与えられた枠内で動く

これがそのまま、

「普通」「常識」として固定される。

問題は「知らないこと」ではなく、
**「知らないままでも成立してしまう構造」**にある。

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