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【なぜ学校は「従順な労働者」を量産するのか?|同調圧力・学歴・教育構造の正体】

なぜ、政府は公立の学校に対して学費を払うのか!?

学校行事というのは主体的に取り組むものではありません。

やらされているだけです。

でも、自分はやる気がなくても周りがやっていると
「自分がおかしいのか?」と考えがちです。

そうすると、
自分が間違っていて周りが正しいと思いこみます。

その結果、周りに従うことが正解であると
盲信し自分の意見を持てなくなります。

これがよく言われている同調圧力というものです。

同調圧力に負けて流されてしまったのが大半なのでしょう。

周りに流された生き方をして後悔している人がたくさんいます。
確かに、ある程度は周りに合わせるのも必要でしょう。

しかし周囲がいつも正しいとは限りません。
入学式の衣装や入学準備と卒業式
小学校の入学の準備だけでも、
学校指定の文房具や中学校なら制服、靴とか
異常にお金がかかります。

社会に出ていくための知識をつけるためでは在りません。
気づいている方も多いと思いますが、
基礎知識として必要なのは小学校ぐらいまでです。

しかも、その基礎知識を子供に教えることは難しくありません。

中学校以降から出で来る、数学の方程式や、国語の漢文、歴史や科学なんかも、
社会に出で役立つことなんかほとんど無いですよね。

それでも、
教師やその他の大人たちは「勉強を頑張りなさい」と言います。

なぜなら、勉強を頑張って良い高校に入り、
良い大学に行く事で、
良い企業の就職を手に入れる事ができるからです。

日本では、良い大学を出て、一流企業に務めることが美徳とされていて、
そうすることでこれから先の生活の安定を約束されると思われています。

しかし、現実は違いますよね。

実際に働いて見ると、新卒新入社員たちは描いていた理想の職場とのギャップに、
「思っていた会社じゃなかった」と不満が出てきます。
一流企業に就職しても…
残業が多い。
給料が低い。
ストレスが溜まる。
こんな不満が出てきます。

当然ですが、どんな一流企業でも、
残業が無くて給料が高くて楽な仕事なんかありませんから。

それに対して周りの人達は、
「働くってそんなもんだよ」とか言って、
我慢する事を刷り込んででいくのです。

「学歴の良さ」と「生活の安定」は結びつくでしょうか?

自分のために勉強を頑張ってるつもりでも、
自分に見合うだけの見返りはないのです。

私立の学校は、
学費を支払って学びに行くところなので、
生徒はお客様と言えるかもしれませんね。

だから私立の学校は、生徒の利益に繋がるような教育をプランして、
単純に国民のために経営してるのです。

生徒のためになる教育でないと、
生徒(お客様)は集まらないですからね。
しかし、公立の学校は学費を国が払います。

国はなぜ国民の学費を払ってくれるのでしょうか?

答えは、単純です。

義務教育を受けさせることで国の利益になるのです。

では、教育を義務化する国の目的のはどんなものでしょうか?

国が必要としている人材は従順な労働者であり、
日本の教育は従順な労働者を創り出すための機関です。

国や企業が求める優良な労働者ってどんな人だと思いますか?
・勤勉で努力家
・我慢強い
・協調性がある
・上からの指示に忠実

これが理想とする日本人そのものです。

多くの日本人はこの特徴に当てはまりますよね。

日本人は、
仕事がしんどいものなのは当然で、
それでも頑張るのは当たり前。

不満があっても、
みんな同じなんだから我慢して、
みんなと同じように働かないといけません。
なぜなら、嫌になってこの会社を辞めてしまえば生活ができなくなるのですから。

こんな思いで労働を続けている方が多いのではないでしょうか?

こんな思い込みのせいで、
職場がブラック企業であっても辞めることができないのです。

そして、こんな思い込みを国民に刷り込んでいるのは、
日本の教育です。

労働者は個性や特別な技能なんかいりません。

いらない事を考えずに、
与えられた業務をひたすら全うしてください。

国や企業に利益をもたらす事が労働者の存在意義なのだから。

これが国のホンネであり、
その考えを実現するために教育があります。

小学校に入学したときから刷り込みは始まります。

みんなに同じ服を着せるなど、いろいろなルールを決める事で、
外見から個性を消していきます。

倫理的に正しいのかどうか分からないルールを守り、
周りの子供達と同じである事を評価されると、
しだいに周りと同じである事に居心地の良さを感じるようになります。

学習面でも、すべての子供に同じ学問を教えます。

未来に役立ちそうな想像力や、
誰にも真似できない器用さを持っていても評価される事はありません。

学校が評価するのは、
学校が教える学習内容の試験の点数です。

試験の点数や偏差値というのは、
労働者としての適正を測るツールです。

偏差値が高いということは、
労働者としての能力が高いと言うことですね。

想像力や器用さなどの特別な技能は、
労働者には必要無いので、
学校は個性を潰していきます。

また、学校は、
わざとつまらない苦痛な授業をします。
それが我慢強さを鍛える訓練になるからですね。

10年以上我慢したおかげて日本人はとても我慢強くなり、
勤め先がブラック企業で酷い扱いを受けても我慢できるのです。

そして学校は、「良い学歴を得ることで生活の安定を約束される」と嘘を刷り込み、
勤勉な個体を育てます。

勤勉な個体は、
将来優秀な労働者になるのてすから学校や社会から高い評価を受けます。

でも中には、勉強が苦手だったり、
勉強する気が無く成績の悪い生徒が出できますよね。

でも大丈夫です。

成績の悪い生徒には劣等感を植え付けます。

人は劣等感が強くなると、
ブラック企業などから受ける不当な扱いを簡単に受け入れてしまいます。

「自分は他の人より劣っているのだから給料が低いのも、
残業が多いのもしょうがないよ」と言う具合に思い込んでしまうのです。

こんな感じで、学校は能力の高い部類も低い部類も全て労働者に育て上げていきます。

学校の進路相談なんかも疑問だと思いませんか?
二択しか無いんですから。
進学か就職しかないですよね。

自由を取り上げ、労働者以外の道は摘み取っていきます。

なぜなら、日本の教育はすべて、
どこかの企業に就職する事を前提に設計されてますから。

学校が絶対に教えない学問
みなさんは、生きていくために一番必要な知識はなんだと思いますか?
私が思うのは「お金の知識」です。

お金は資本主義の要であり、
私たちが生きていくために絶対に必要なものですよね。

それだけ大事なものなのに日本人はお金に対して無知すぎます。

それは、国がわざと
「お金の知識」を教えないようにしているからです。

逆に、日本では
「お金」に関する話しを遠ざける傾向にありますよね。

「お金」の話しを卑しいと毛嫌いする人もいます。

これも国によってもたらされた刷り込みです。

これは、国民に「お金の知識」を与えることが、
労働以外に目を向けることになるからです。

国民がもし労働以外にお金を稼ぐ手段を知ってしまえば
労働者が居なくなってしまいますから、
国は困りますよね。

国は、国の利害で教育を設計しています。

それが国民自由を奪い、
不幸になるとしても関係ないのです。

国は、国家を守ることか最優先事項なのですから。

大事なのは、
私たちに与えられた社会の仕組みの中でどう生きるかを考えることです。

本当の自由は誰も与えてくれません。

自分で考えて行動できる人にだけ
掴めるものだということを知りましょう。

日本の教育に染まっていては、
日本は生きにくい社会そのものです。

簡単に「お金」によって
支配されてしまうのですから。

学校は非効率な学びの場である。

小学校の場合、約30人の教室に教員は1人。

全体の学びの進度に合わせて授業が進んでいきます。
自主学習している人にとってはとても無意味な時間です。

学校教育と謳っているものもそう。
なぜ卒業式の練習が10時間もあるのか。

体育祭などの学校行事は何の目的があって開催されているか、
具体的に説明された人はいるでしょうか?

「お金」など社会的なスキルを教えてくれない。

なぜ教えてくれないのでしょうか?答えは2つ。

「教員が学校の教育しか知らない(社会を知らない教員が多い)」
「稼ぎ方を知らない」

知識として持ち合わせている教員もいます。

ですが、学校カリキュラムには一切と言っていいほど
「お金」に関する授業はありません。

なのでいくら社会人経験を持った教員が入ってきても教えることは出来ないのです。

平等に見せかけて不平等。

皆さんは世の中平等だと思いますか?おおよそ「No」でしょう。

機会においても成果においても報酬においても、全て不平等です。

日本人はどこか勘違いをしています。

平等は作られるものではなくすべて元々存在するものです。

「学校教育」においてもそれは同じで、
能力や成績、あるいは学習環境は全て不平等です。

教育が担保しているのはあくまでも「機会」の平等性。
(教育を受ける権利.教育の均等)

例えば、家庭が裕福なら
自分が望んだ学習環境が手に入る。

そうでなければ自分で頑張るしかない。
ごく当たり前のことですね。

教師が一方的に押し付けるものだと思われている。

このイメージは真実でもありながら虚偽でもあります。

このイメージは恐らく今まであなたが身を置いてきた「学校教育」を想起してのイメージ、
つまり過去のもの。

一方で、現在の教育は
”主体的・対話的で深い学び”(アクティブ・ラーニング)を掲げ、
子ども達に主体的に学ばせよう、と動いています。

但し、教育する側が果たして
これを理解して伝えられるのか、
体験していないものを子ども達に上手く伝えられるのか、
その点は未だに疑問点ですが。

物が豊かな日本では教育が「当たり前」だと思われている。

はっきり言ってこの”文化”が一番大きいのかもしれません。
世の中を見てください。

普通に考えたら非常識ですよね。

雇われている人間が雇っている会社の損害になるような働き方をしている。

全ての人間が少なくとも「義務教育」によって
15歳まで教育を受けることになっています。

つまりある程度の教育を受けたのにも関わらず
犯罪や人に迷惑をかけるバカが後を絶ちません。

物が豊かであればあるほど、
人間は学ばなければなりません。

それを理解せず、
モノに依存するから
人間は備わっているはずの「知性」を失い始めています。

成長を自分で感じられる場所がない。

長いスパンであればあるほど人間は成長を感じやすくなります。
一方で短いスパンで自己成長を感じられるところがない。

理由は、「尺度」。

学校教育のなかで成長を表すのは、

・成績

・テストの点数

・褒められること

これらしかありません。

発達段階の影響もありますが、
他者からの評価でしか自己成長を感じなければ
環境から抜け出す事のハードルは上がって行きます。

疑ったり、「なぜ」を追求できる人は脱出できると思います。

この文章全体は、一貫して「教育=従順な労働者の量産装置」という前提で組み上げられている。そして重要なのは、単なる感情論ではなく、観察→違和感→構造化の順で論理が積み上がっている点にある。

以下、構造ごとに分解していく。


① 出発点:「なぜ国が学費を払うのか」という違和感

ここで提示されているのはシンプルな疑問だ。

「なぜ国がわざわざ教育費を負担するのか」

通常は「国民のため」「福祉」「機会平等」といった説明で処理されるが、この文章ではそこを否定し、“国の利益”という視点に引き戻している

つまり前提が逆転している。

・一般認識:「国 → 国民のために教育」
・本文構造:「国 → 自分の利益のために教育」

この視点の転換が全体の軸になっている。


② 同調圧力の仕組み:個人の認識破壊

学校行事の話は単なる愚痴ではない。

「やらされているのに、周囲がやっていることで正当化される」

この構造が重要だ。

ここで起きているのは、

・主体性の剥奪
・判断基準の外部依存化

つまり「正しいかどうか」を自分で判断できなくするプロセス。

そして最終的に、

「周りに従う=正しい」

という思考に固定される。

これは単なる圧力ではなく、判断基準そのものを書き換える装置として機能している。


③ 教育内容への疑義:実用性の切断

中学以降の学問が役に立たない、という指摘は表面的に見えるが、本質はそこではない。

重要なのは、

「なぜ役に立たないものを長期間やらせるのか」

という点だ。

ここでの論理はこうなる:

・役に立つためではない
・では何のためか
選別と従属訓練のため

つまり、

・内容の有用性ではなく
・「従えるか」「耐えられるか」が評価されている

この視点に切り替えている。


④ 学歴→企業→安定という“ルート設計”

「良い大学→良い企業→安定」

このルートは事実として存在するが、本文はそれを幻想として解体している

ポイントはここ:

・現実は「高負荷・低満足」でも成立する
・それでもルートが維持される

つまり、

「報酬が見合っていなくても、システムが回る」

この状態こそが重要。

なぜなら、目的は満足ではなく労働供給の維持だからだ。


⑤ 労働者モデルの明示

提示されている理想像:

・勤勉
・我慢強い
・協調性
・指示に忠実

これは偶然ではなく、企業運用に最適化された人格パターン

ここで重要なのは、

「これが“良い人”として教育される」

という点。

つまり倫理と労働適性が混同されている。


⑥ 個性排除のロジック

制服・ルール・同調評価。

これらは単なる校則ではなく、

・差異の可視化を防ぐ
・逸脱コストを上げる

という機能を持つ。

さらに学習評価も同様で、

・テスト=標準化
・偏差値=序列化

ここでの主張は明確:

「個性が評価されないのではなく、最初から評価対象外にされている」


⑦ 苦痛耐性の意図的形成

「つまらない授業」という指摘は重要。

ここでの論理はかなり露骨で、

・楽しい必要はない
・むしろ苦痛であることに意味がある

理由は、

「長期耐性の訓練」

つまり学校は知識提供ではなく、

“環境に耐える個体”の育成機関

として機能しているという見方。


⑧ 成績別の分岐処理

この部分はかなり構造的。

・成績が良い → 自信 →上位労働者
・成績が悪い → 劣等感 →従属労働者

どちらも逃げ場がない。

つまり、

「上でも下でも労働に回収される設計」

ここがかなり核心。


⑨ 金の知識を教えない理由

ここも論点がはっきりしている。

・資本主義の核心=金
・それを教えない

理由:

「労働以外の選択肢に気づかせないため」

さらに文化的側面として、

「金の話=卑しい」

という価値観も同時に刷り込まれていると指摘している。

つまり制度+文化の二重ロック。


⑩ 非効率の正体

・30人に1人
・進度固定
・行事時間の浪費

これらは単なる非効率ではなく、

「個別最適をさせない構造」

個別最適が進めば何が起きるか?

→ 自立・差異・逸脱

それを防ぐための平均化。


⑪ 平等という言葉のすり替え

ここでの整理はかなりクリア。

・平等=結果ではない
・教育が保証しているのは機会のみ

にも関わらず、

「平等に見せている」

つまり、

錯覚としての平等


⑫ 教育のアップデートの限界

アクティブラーニングへの言及もあるが、

・理念は変わった
・運用者が変わっていない

このズレが指摘されている。

つまり構造は維持されたまま。


⑬ 成長実感の欠如

評価軸:

・点数
・成績
・他者評価

これしかない。

その結果、

「内的成長の感知能力が育たない」

つまり、

環境から抜けるための判断基準が形成されない。


総括

この文章の核心はここに集約される。

教育は「知識供給」ではなく「行動制御システム」として機能している

そして、

・同調圧力
・評価制度
・カリキュラム
・文化

すべてが連動している。

最終的に提示されている結論はシンプルだ。

「構造を理解しない限り、その中で最適化されたまま終わる」

逆に言えば、

「疑問を持てるかどうか」が分岐点になる。

ここまで一貫しているため、この文章は単なる不満ではなく、一つの“教育構造仮説”として成立している

なぜ教員は全体的に人間性の低いのか!?

親子揃って学校の教員に
舐められている

コイツラ、国会議員とか来ると
ヘコヘコする
自分よりも立場の弱い部類にはイキリちらして
立場が上の個体には
ヘコヘコする。

学校の先生を
崇めたり信用するのはやめてほしい。

これはを
カルトを崇めたり信用するのと一緒。

こうなると
不幸の要素が積み重なっている

教師の不祥事や犯罪報道は氷山の一角で、実際はもっと多いんだろうな。
そしてそんな奴等が顔も氏名も出されずに野放しにされている。

学校の先生って
バカにしているとかじゃなくて
ホントに仕事できないですからね

こういうのが
子供の前に立って教えているのが
いかに恐ろしいかを認識してほしいです

政府がわざと
人間性の低く
まともじゃない部類を教員にしている

そうすれば
子どもは賢くならずにすむ

親の前では
見せる善

親は騙されているだけでなく
実際は見下されている

誰を信用してるねんという話し

学校の先生が
自分たちが死んだ先の日本のことを考えていると思わないこと

あまり世の中のことを知っていない側ほど
学校の先生をバカみたいに信用する

横柄だったり
偉そうにしているのも多々いる。

そんなヤツの話しなんて
聞く価値がない

子供の進路や将来のことなんて
考えていない

社会人の経験が実質ないのに
オマエはこういうのは向いている
向いてないとか勝手に決めつけ
子供の才能と潰しにかかってくる

教員なんて
お金と時間を搾取されている代表なので
コイツらと
同じ空間に長期でいるのはアウト

学べることなんて
なにもない。

搾取されるクセがついてしまうだけ。

親も子も教員に舐められている自覚を持ったほうが良い

いつまで
こんな奴らを神様として
崇めるのかという話です

教員が犯罪をして
捕まっても
そんな驚くことではない

もともと犯罪者思考の側が教員になっているだけ

なんで、こんなやつが学校の先生なのという考え自体が間違いで
そもそも頭がおかしな人が学校の先生になっている

こんな学校という狭い世界でしか威張れない奴が
今も昔も調子こいでいるのが腹が立つ
人の上に立つべきでない人が学校の先生をしている

学校の先生の大半は
社会的地位があると
勘違いしている。

勘違いさせているのは
多くの親子が崇めているせい

なぜオレオレ詐欺をやっているクズは悪人で
学校の先生を善人と思うのでしょうか

両者ともクズですが
家族全体の人生を狂わせる
学校の先生のほうが
たちが悪いです。

こいつらを調子づかせることを
やめさせないと
ドンドン被害者が拡大します。

教員の給料は税金なのですが
やっていることが
税金泥棒レベルではないです。

▼教員免許取得のハードルが低い

大学時代に教員免許を取るのは、
実は大変ではありません。

授業さえ出て、単位を取って、
教育実習さえ受ければ、
いくら人としてポンコツでも教員免許を取得することができます。

多くのポンコツは教育実習でその根性を叩き直されるのですが、
中途半端にできのいい教員はそのまま学校で働き始めてしまいます。

大卒ストレート常勤が一番たちが悪いというのが個人的な見解です。
理由はこれから述べていきます。

▼本当に教員に向いている人は教員なんてしない

出会ったこと、ありませんでしょうか?

「うわ~、こんな人が当時の学校の先生だったら人生変わっただろうにな~!」という、
教員をやっていない人。

そうなんです、
本当に教員に向いている人は教員なんかしないんです。

彼らにはもっとやることがあるんです。

きっともっと生産的で、クリエイティブな何かか、
企業で理想の上司などしているのではないかと思います。

「教育に携わって生徒を育てるのも立派な社会貢献だ」
そう思う人はたぶん学習指導要領を読んだことがないのではないでしょうか?

▼就活したくなくて教員

教員免許を持っている大学生は、
とりあえず私学適性検査さえ受ければ教員に非常勤であれ教員になれるので、
就活に全敗した人や、
そもそも就活をしたくなかった怠惰な人たちが私学で先生をしている場合もあります。

公立の学校の先生は公務員なので、都道府県や政令指定都市がおこなう教員採用試験を受けますが、
私立の先生になるには私学適性検査という、
教員採用試験の私立版を受けます。

教員になるってびっくりするくらい簡単だし、
それなのに高い給料をもらえるんです。

その分、激務と過剰な労働時間、

さらに税金をたくさん引かれますが。。

特に私立での非常勤は最高です。

私学適性検査を受けて、
各学校から電話や手紙でオファーをひととおり受けて、
その中から一番待遇がいいところを選ぶだけです。

別に理想の教員像なんてないし、
生徒と密接にかかわっていこうなんていう気持ちも特にありません。
それでもなれるのが日本の教員なのです。

▼社会経験がない

学校で働く教員で、
もし教員以外の仕事を経験したことがない人がいるのであれば、
警戒した方がよいでしょう。

大学を卒業し、
そのまま学校で働き始めてしまったがために社会のことは何も知らない、
けれどプライドだけは一丁前といった教員は珍しくありません。

ずっと学校に身をおいている教員たちは世界のことを知らないばかりか、
飲食店での立ち振る舞い方も知りません。

こういうのがいるからこそ、
髪を無理やり黒に染めさせるなんてことが起きてしまうのではないでしょうか。

自らの辞書には
多様性のたの字もない人が教員になれてしまうのです。

▼プライドと権力があると勘違いする

日本の教員のレベルを下げる教員たちの中でも一番多いのが、
「生徒は先生の言うことを何でも聞いて当たり前」
「先生が言うことは絶対に正しい」というスタンスで教員が多いからです。

本当に良質な教員というのは、
生徒と人間同士として対等に話をでき、
生徒の考えや主張を尊重し、
生徒から自分の知らないことを学ぶということを恐れない人を言うのではないでしょうか?

これができない教員に限って「校則だから」「だめなもんはだめ」という言い方をします。

ちゃんとした教員もいることで
多少のバランスを保っている世界です。

教員というのは
基本的に
クソであることを認識しましょう。

ちゃんと教員もいますが

学校の先生にヘコヘコする姿はみっともない。
学校の先生の言っていること、やっていることが正しいと思ってるかもしれませんが
あんな人間のクズにヘコヘコするなんて
惨めだと思います。

どうして学校の先生を信用するのか
なぜ学校に通うことが当たり前と思うのか
学校のやっていることが正しいのかを
よく考えてほしいです。

残業代が検討されていますが
今の学校のシステムなどを見直せば
教員に残業せずに済みますし
教員の数を少なくすることが出来ます。

学校の先生がしている恐喝、脅迫、暴行を「怖い」と表現にしていますが
ただの犯罪です。

学校の先生だから
許されているわけじゃなくて
被害者が対処の仕方が分からなかったから
野放しにされていただけ

学校の先生はデリカシーと倫理観がない

心配して言っているのではなく
ただ言いたいだけ

人を見る目がないのに
すぐにこのヒトはこういう人だ
お前はこういう人間と決めつけてくるし
あら捜しをするのが好き

こんな奴等と同じ空間にいてはいけない

学校の先生は
学校の勉強が出来るかどうかでしか
子どもを判断しない

もちろん全員ではないけど
こういうのが多い。

こんなのに子どもを数年間、預けるなんて恐ろしい

人間性が低く
低能で学校という狭い世界しか知らないやつが教員になっていて
学校のシステムを見直せば
教員はいらない。

教員の言っている100個のうち、
もしかしたら
1,2個は、ためになることを言っているかもしれませんが
それでも1,2個です。

それどころか
ためになることを何一つ言っていないなんてことも
全然あります。

まだマシな教員がクラスの担任なら良いけど
ややゴミクズ以上だと
運気が下がる

学校の先生は
「オマエはこうこうこういう人間だ」と
人格否定するだけして
どうやれば改善できるかを言わない

千葉県松戸市教育委員会は11日、市立小学校の30代女性教諭が昨年10月、特別支援学級2年だった男子児童(8)を抱きかかえてごみ箱の中に立たせた上でごみ箱ごと蹴り、転倒させる体罰があったと発表した。

・児童は前歯1本を折るけがを負った。

・教諭は校長に対して当初「蹴ったごみ箱が児童に当たり、転倒した」などと虚偽の説明をしていたという。

・体罰は昨年10月8日午後、校内の相談室で起きた。

・教諭は「子どもがごみ箱を蹴ってしまうのをやめさせたかった」と話している。

・児童をごみ箱に入れた上で蹴る行為を同月中に他にも2回しており、この際はけがはなかった。

2025年4月11日の出来事ですが
逮捕されないのは、親が警察に被害届を出していないから。

学校の先生を神様として
崇めている親が多い

教員の暴行や脅迫は
犯罪なので警察が動きますが
どこか教員を神格化しているので
警察の通報するという発想がない

学校は意図的に
自分の身を守る手段を教えないので
どういう場面で
警察に通報するかという発想がないのかもしれません。

医療従事者は
患者に殴る噛みつく、髪ひっぱられる
威力業務妨害も結構ありますよね…

女性看護師や女性介護士だと
男性患者に性暴力もかなりされてます

あと、ひっかく、唾を飛ばす、杖で殴られるでも
警察に通報するという発想がないそうです。

強制退院を狙って
耐えている話もありますが
警察に通報した方が
自分の身を守ることが出来ます。

この文章は、構造として見ると「教員個人」への批判ではなく、教員という職種に集まりやすい人材構造と制度設計への批判で一貫している。そこを分解すると、いくつかの明確なレイヤーに分かれる。


① 表層:態度の二極化(上には従い、下には強く出る)

指摘されているのは単なる性格の問題ではない。

・上位権力(議員など)には従属
・下位(生徒・保護者)には強圧

これは典型的な中間権力ポジションの挙動

組織論で見ると、

  • 上からの評価で生存が決まる
  • 下には直接的な統制権を持つ

この条件が揃うと、自然にこの振る舞いになる。

つまり「人間性が低いから」ではなく、
その振る舞いを誘発するポジションに置かれているという側面がある。


② 採用構造:フィルタリングの弱さ

本文で繰り返されているのがここ。

・教員免許取得のハードルが低い
・一定の単位と実習で通過できる

この構造の問題はシンプルで、

人格・対人適性がほぼスクリーニングされない

結果として、

・対人能力が低い
・権力距離感を誤る
・固定観念が強い

こうしたタイプもそのまま流入する。


③ キャリア経路:社会経験の断絶

特に強く指摘されているのが「大卒ストレート教員」。

構造はこうなる:

  • 学校 → 大学 → 学校

このループにより、

・他業界の評価基準を知らない
・外部との比較軸がない
・内部ルールを絶対化する

結果として、

「校則だから」「ダメなものはダメ」

という思考停止型の権威運用に陥る。


④ 動機の歪み:消極的選択としての教員

本文の核心の一つ。

・就活回避
・選択肢としての教員

つまり、

積極的志望ではない層の流入

この場合、

・教育理念が弱い
・対人投資意欲が低い
・業務を“こなす対象”として扱う

となりやすい。


⑤ 閉鎖環境による自己肥大

学校という空間の特性が強く影響している。

・外部評価が入りにくい
・長期間同じ構造に滞在
・上下関係が固定

この結果、

「自分が正しい」という感覚が強化される

さらに、

・生徒は反論しにくい
・保護者も情報が限定される

この非対称性が、

横柄・決めつけ・人格評価の乱用

につながる。


⑥ 評価軸の単一性

教員が見ている指標は限定されている。

・テスト
・成績
・内申

このため、

それ以外の能力が認識されにくい

結果として、

・「向いている/向いていない」の短絡判断
・才能の誤認
・ラベリング

が発生する。


⑦ 権威の誤認と神格化

本文が強く批判しているポイント。

・親子側が教員を過剰に信頼
・社会的地位を過大評価

これにより、

チェック機構が機能しなくなる

本来なら起きるべき反応:

  • 異常行動 → 通報・問題化

実際:

  • 異常行動 → 「先生だから」で処理

このズレが、

不祥事の潜在化・長期化を生む。


⑧ 不祥事の扱いと可視化の問題

提示されている事例は象徴的。

・暴力
・虚偽説明
・継続行為

ここでの論点は、

「なぜ刑事処理に直結しないのか」

答えは単純で、

・被害者側の通報不足
・内部処理志向
・権威バイアス

つまり制度以前に、

社会側の認識が抑止を弱めている


⑨ 「人間性が低い」という評価の中身

この言葉は、中身を分解すると具体的。

・対等な対話ができない
・決めつけが強い
・改善策を提示しない
・倫理観が弱い
・境界線の認識が曖昧

これらはすべて、

  • 採用
  • 環境
  • 評価構造

の複合で生じている。


⑩ 結論構造

この文章が最終的に言っているのは単純だ。

「教員個人を善と前提するな」

そしてさらに踏み込むと、

  • 無条件に従うな
  • 権威として扱うな
  • 必要なら外部(警察など)を使え

という、対処戦略の提示にまで至っている。


総括

「教員の人間性が低い」という表現は強いが、構造として整理すると以下になる。

  • 入口(採用・免許)が緩い
  • 経路(キャリア)が閉じている
  • 環境(学校)が閉鎖的
  • 評価(成績)が単一
  • 外部監視(親・社会)が弱い

この5つが重なることで、

権威だけを持った未成熟な対人主体

が一定数発生する。

そして最も重要なのは、

その存在を前提にどう振る舞うか

という点にある。

盲信すると一方的に影響を受ける構造になっているため、
距離・判断・選別を持たない限り、
その影響は回避できない。

学校に行くと時代に対応できる者になれない!

何のために何をするのか、
どんな風にするのか、すべてを自分で決め、
自ら責任を負いながら突き進む力。

これらは新しい時代を楽しく生きるためには必須の能力です。

未知の領域に足を踏み入れ、
新しい体験や考え方を味わうことのすべてが学び。

だから、
場所は学校や企業に限定されないし、
正解もいりません。

どれもこれも明らかにおかしいですが、
学校教育は義務教育だけでも
小学校6年+中学校3年の9年間、
それに加えて高校3年も合わせると12年間。

子供は「学校には行って当たり前」という親とか周りが抱いている空気に逆らうことができません。

「同じ年に生まれた人たちだけ」からなる集団って、学校以外にありますか?

みんなで同じことを同じペースで
一斉に勉強させるベルトコンベヤーのようなシステムは、
多様な子が混ざれば機能しなくなる。

その恐れが、人と違うことを嫌い、
異質なものを排除する力学を生んでいる。

学校というのは、
まさに刑務所という言葉が一番、合っているような場所でした。

自分の意思とは関係なく、
絶対に行かなければいけない場所。

罪人(子供)は
刑務所(学校)に「行かなければならない」
そして牢屋(クラス)に「入らなければならない」

牢屋に入っているとストレスが溜まるので、
強い者は弱い者を使ってストレス発散をしているのでしょう。

「肉食動物が草食動物を食っている」とも言えるのかもしれません。

それは同じ場所に違う種類の人間をごっちゃにしているのが
原因で起こってくることなのです。

学校は
未だに弱肉強食の価値観を教える場所になっているのでしょう。

学校がそんな場所であり続ける限り、
今さら道徳の授業などによって
どうにかしようとしたところであまり意味はないと思います。

敷地内に自由に出入りができない
刑務所の敷地は壁でおおわれており、
敷地内に入るには、何か罪を犯すか、
刑務所にいる知り合いに面談する場合である。

学校も同様に敷地は壁やフェンスでおおわれており、
例えば社会人になった私が公立の
小中学校の敷地内に出入りすることはできない。

税金で建築し、運営している公共施設にもかかわらず、
教育では差別を禁止しているのに、
税金を払っている一般市民でさえ、
学校の関係者でなければ敷地内に入れない。

刑務所では自殺や殺人が起きないように厳しい監視体制が整っているが、
それでも過去に起きている。

学校も同様に自殺がよく起きており、
生徒が友達を学校内で殺す事件も過去に起きているし、
どんなに警備を強化しても、
部外者が校内に侵入して無差別に人を殺す事件が過去に何度も起きている。

刑務所は
「罪を反省したかどうか」や「社会復帰できる能力があるかどうか」で
出所が決まるのではなく、
裁判で決まった期間が過ぎれば、
新たな罪を犯さない限り刑務所に入れない。

刑務所に入っても
反省しないで
次はバレないようにどうすれば良いかという考えです。

日本の学校も同様に在学期間が決まっており、
授業を全く理解していなくても進級ならびに卒業する仕組みになっている。

日本では小中学校に入り直すこともできないし、
海外の先進国のように留年制度もないので、
「学力があるのかないのか」や「社会に適応できる能力があるのかないのか」で
卒業が決まるわけではない。

学校は私費負担が重い一方、
刑務所はゼロ刑務所に入ると、
食事も医療も衣服も、
何もかもがすべて無料である。

一方、日本の公立の小中学校の授業料は憲法により無料にしているが、
制服やカバン、体操服といった学校指定のものを有料で買わされるため、
日本の義務教育は保護者の私費負担が重いことが特徴だ。

本来、学校側は鉛筆が買えない子どもでも、
差別されることなく平等に教育が受けられる環境を作らなければならないが、
完全にその義務を放棄している。

体操服を買わなければ子どもが差別され、
それがいじめにつながることを学校側は容易に想像できるが、
対策をしておらず、
さらに修学旅行や部活動にも強制的に参加させて
多額の費用を保護者に要求しており、
学校はむしろ差別を誘発している。

一方、鉛筆が買えない子どもでも、
文字を読む能力さえあれば無料で学べるのは図書館である。

学校とは異なり、
図書館は年齢の差別がないため、
何歳であろうと施設内に入れるし
自由に本が読める。

また、図書館は誰でも施設内に入れるが、
殺人は起きておらず、
当然ながら自殺も起きていない。

よって差別を前提とする日本の学校は教育機関でなく、
むしろ刑務所であり、
真の教育機関は図書館である生徒が間違いを指摘しても
「俺は教師だ」と言って聞く耳すら持たないだろう。

むしろ反論する余地すら持たせない圧力をかけるだろう。

「俺が100パーセント正しい」。

ほとんどすべての先生はこういう心境になっている。

学校が変わらないのなら、
親や子供の方で変わらないといけません。

学校に行かなくても、
自発的に勉強をしていく姿勢を身につける必要があるのです。

本来であれば
この姿勢も学校側が教えるものなのだと思いますが、
学校が機能不全を起こしている以上、
自分たちで道を切り開いていくしかないのでしょう。

これだけの期間ずっと「常識!」として扱われ、
押し付けられ続ければ、
いつしかそのおかしな当たり前、
常識にも慣れていってしまうわけです。

18歳までは
社会に出て、
一人で考え、
正確に行動できるようになるための力を身に着ける育成期間。

地頭が良い側は
学校でダラダラ過ごしても、
社会に出て、
要領よくこなせるかもしれませんが
皆がそうではない。

学校に任せて、
社会に出るための育成期間をおろそかにすると、
子供が社会に出た時に
子供はもちろん、
親自身も苦労することになります。

「学校に行かないとダメになる」
「学校に行けないのは落ちこぼれ」
「学校にいかないと将来が大変」
という教師や親、周りの時代遅れの意見なのです。

しかしながら…
この考えは情けないです。

なぜなら…
「学校に行って、良い会社に雇われることがゴールになっている」
「自分の能力で稼いで食べていくという自信がない」
「結局社会の奴隷になるゴールしか見えていない」からです。

結局のところ、
親がなぜ子供の不登校を心配するのかというと
「食っていけなくなると思っているから」なのです。

しかし学校に行かないと食っていけないというのは本当でしょうか?
そんなことはありません。

「学校は協調性を学ぶところ」とか言う人がいます。

しかし社会というフィールドでは年齢も学歴も全く異なる人達と協力しながら
仕事を進めていかなければなりません。

しかし学校では、
そんな大事な経験は積むことができません。

それならばいっそのこと、
学校の外で年齢も世代もバラバラの人間がいる環境を体験したほうが、
よっぽど社会勉強になりそうです。

親も教師もクラスメイトも所詮、他人なのです。

学校のクラスメイトなんて卒業すれば全く、
会わなくなります。

牢屋の部屋が一緒だったというだけの話です。

牢屋から出れば、
会いたいとすら思わなくなるでしょう。
そして一生、会うこともないのです。

しかし、そういう状態になるのに卒業を待つ必要はありません。

まだ、軽症のうちから、
学校に行かないという選択をすることによってそれを早めることができるのです。

これからの時代、
変化のスピードがますます加速し、
どんな会社でもいつリストラされるかもわからないような状況になってきたときに、
すでに過ぎ去った安心、
安定を求めるサラリーマン的な生き方をしてしまうのは危険だと思います。

今まではそうした生き方が安定していて安全に見えたとしても、
これからはそうした生き方が逆に危険になってしまうのでしょう。

だからこそ、
学校に無目的に行き続けることは危険なのです。

無目的に学校に行き続けることによって、
サラリーマン的な精神を身につけてしまうと、
会社に依存しないと生きていけない状態になりやすい。

これからの時代と合わないのです。
おそらく、何が何でも子供を学校に行かせたがる親は、
そこらへんが見えていないのでしょう。

あるいはもっと単純に、周りから
「不登校の子を持つ親」という風に見られたくないだけなのかもしれません。

そういった理由で子供を学校に行かせ続け、
会社に就職するしかないような人間にさせてしまうよりも、
自分のやりたいことを追求させて、
会社に就職する以外の選択肢を増やしてあげることが、
これからの親の在り方だと思うのです。

今までは学校に行かせてあげた方が
安心、安定、安全な道であったとしても、
これからの時代は、
無目的に思考停止して学校に行かせ続けることは、
子供の将来の幅を狭めることになるのだと
私は思います。

学校が信仰の対象になっていて、
学校なしでは人生が成り立たないように信じられていることです。
「来ないと人間がダメになる」
「将来食っていけないぞ」
とかいう脅しが蔓延しているのです。

孤立することを避けるためだけに作ったフリの友達を
牢屋から出てまで会いたいと思うものではないでしょう。

そうなってしまうのは友達ではなく、
友達のフリだったという証拠なのです。

ただ孤立して
「惨めになりたくないから」という理由だけで作った、

一時避難所としての友達契約は、
その学校を卒業すると同時に切れてしまうのです。
常識に従っている限り、幸福にはなれない

ただそれでも、中には学生時代のフリの友達と、
ごくたまに会うような人もいるのかもしれません。

でもそれは、「結局、自分の位置がどの辺なのか」ということを確認する行為でしかなかったりするのです。

誰々が結婚したとか、年収がいくらだとかで相変わらず、
「相対的価値観」から抜け出せていない、
くだらない世界観で生きているのでしょう。

こうならないためにはやはり、
自分が興味を持てる対象を出来るだけ早い段階から見つけておくべきだと思うのです。

それを見つけることができたなら、
「絶対的価値観」の中で生きることができるので、
他人が言ってくることにいちいち惑わされにくくなります。

逆に言えば、
これを見つけることができない人が、
「常識」というものに盲目的に従ってしまうのです。

この「常識」というものに従って生きている限り、
本当の意味で幸福になることはないでしょう。

学校に行かないで、
自分の興味・関心を追求していった人の方が創造性が豊かになっていくのだとしたら、
真面目に学校に行っている人の方が将来、
路頭に迷う状況になりやすいのではないでしょうか。

そして、そういう状況になったとしても
学校側は責任を取ってはくれないのです。

真面目に学校に行っていた人の方が路頭に迷う状況。

正直者がバカを見る世界。
「〜しなければいけない」という仕事の仕方ではなく、
「〜したい」という仕事の仕方に変わっていくのです。

いや、変わっていかないといけないのです。

この変化に適応できない人はどんどん厳しくなっていくと思います。

時代が進むにつれて、
本を自由に買えるようになった。

さらに今ではインターネットがあるから、
学びたいことを学びたいだけ、
タダで学べる。

そんな時代に学校に行く意味なんて
そもそもないんですよ。

それに、知識というのは
人に教えられて身につくものじゃありません。

自分から学ばないと身につかないものです。

「人に無理やり押しつけたって身につかない」、
そんなこと、
本当は誰もがわかっていることでしょう。

だから不登校はまったく問題じゃない。

「不登校が問題になる社会」のほうが
問題なんです。

全ては惰性で学校に行き続けることが発端になっているのです。

これからは、そういう生き方を変えていかなければなりません。

もちろん、
学校側が子供の興味・関心をひき出してくれるような教育をしてくれるのなら話は別ですが、
テストでいい点を取るためだけの暗記中心の無駄な勉強ばかり教えているのなら、
やはり、学校の勉強はテキトーにして、
自分で興味・関心のある勉強をしていかなければいけないと思います。

自分で勉強していくのです。

自分で勉強する姿勢を身につけることができれば、
学校にいく必要はなくなると思います。

この心の姿勢を身につけることができれば
学校にいく必要はなくなるのです。

逆に言えば、学校に行き続けても、
この心の姿勢を身につけることができなければ、
学校に行き続ける意味があまりないと思います。

学校を卒業して、勉強することまで卒業してしまうのなら、
学校に行き続ける意味はないのです。

ということは、この姿勢を身につけることができるのなら、
学校にいく必要はなくなるのだと私は思うのです。

自分の気持ちと向き合い、自分を知り、
自分が学びたいことを自発的に勉強していく。

こういう能力は、
単に「学校を卒業すればほとんど会わなくなるような浅い一時的な人間関係を上手くやっていく能力」よりも、

はるかに重要なことです。

だからこそ、学校がこういうことを教えてくれないどころか、
真逆のことをやっているのなら、
自分で学んでいくしか方法がありません。

こういうことを自分でできるようになれば、
思考停止して学校に行き続けるよりもはるかに
成長できるようになるのだと思いますし学校に行かなければ、
ここまでダメージが広がることはなかったと思います。

囚人に選択肢がないように、
自分に選択肢があるとは思えなかったから。

時間の無駄くらいならまだいいのですが、
10代という一番、多感な時期に、
自己肯定感を下げる場所に自ら行き続ける行為は、
自傷行為となんら変わらないのです。

学校に行き続けても、
「自分が何に興味があるのか」ということがわからないことが異常なのです。

その異常な状態を正常と感じ続けながら
思考停止して学校に行き続けても良いことなんて一つもありません。

もちろん学校が楽しいのなら
話は別ですが
幼少期に受けるモノの影響ってのは本当に強いので、
そんな時に社畜のための洗脳を受けさせて、
誤った考えから抜け出せなくなくなります。

学校によっていろんな才能が潰され、
天才が死んでいる気がします。

現代であれば、PC等ネットに繋げる環境があれば、
自分で勉強できる時代ですし、
自分自身の経験から強制的に押し付けられ嫌々やる勉強ってのは
本当に身につかない。

自分の子供には
自分自身の失敗経験から、
とにかく自発的に興味を持った物事を徹底的にやらせたほうが伸びしろがあります。

今後は何かに特化した芸を持ってないと生きることが難しくなる時代だと感じてます。

もし自分の子供に教育を施すなら、
最低限の四則演算とある程度の読み書き、
危険な事や法律に引っかかると危ない事と、
ある程度のお金の稼ぎ方の感覚を教え、
後は子供の興味に任せるのが一番と感じてます。

学校なんかで理不尽に反抗することが出来ず、
おかしいことに疑問を持たずに知らず知らずの内に我慢して潰れるように洗脳されるくらいなら、
別の教育を施したほうが良い成果が出せるんじゃないでしょうか?

学校とか本当に無駄な苦労だと今からだと思えるし、
苦労すると感じることよりも
好きなことを伸ばすようにした方が将来稼げます。

学校の部活動においても同様に、
顧問が精神論や根性論を使って学生に長時間練習をさせたあげく、
大会で負けても顧問を辞任せず、
負けた理由を学生の精神力のせいにする姿を見れば、
戦時中の日本軍の姿によく似ている。

よって、戦時中の日本軍のように、
上層部が責任を取らず、精神論や根性論が多用され始めると
組織が崩壊する前兆である一般の公的な小中学校、
高校とは、
現在のブラック企業での兵隊を作るための手段に他ならないのではないかと考えてしまうのです。

事実、優秀な進学校などに行けば、
「校則はあってないようなもの」と言われます。
それはすなわち、放っておいても学力の高い生徒は勝手に勉強を行い、
勝手に良い学校に行くので、
普段の生活指導などを放っておいても学校の名誉が維持されるため、
そのような自由な風潮が存在するのでしょう。

「学び」は常に能動的で、すべては、
「自分で切り拓いていく」営みなんだと言われます。

なにかに没頭しているのなら、
一日中それについて思考をめぐらし、
新機軸を思いつきます。

失敗を恐れずに試行錯誤を重ね、
努力や苦労の過程も含めて全容を楽しむことができます。

学びは、没頭のなかにこそある。

誰かに言われてする「お勉強」のなかには学びの本質は存在しません。

自分にとって好きな遊びの活動は、
誰かが、何かが、邪魔をしなければ、
創造する能力を開花させる真剣な学びです。

遊びによって育つもの。

創造力、集中力、思考力、洞察力、行動力、実践力、能動力、
忍耐力、体力、技能、個性、自主性、主体性、協調性、自省心、愛他心、etc。

いずれも豊かな知恵を生む貴重な財産 です。

学校という集団教育の場は、没頭を否定し、天才を否定する洗脳機関なのです。

では具体的に、学校はどんな手段を使ってその洗脳を行い、
すべての子どもをただの凡才に仕立てあげようとするのか。
「禁止」である。

「あれをしてはダメ、
これをしてはダメ」と禁止のルールを増やしていくことは、
非情にコストの安い教育手法だ。

今の小中の教育を受けてたら、
これから10年後、使い物にならない人材になりますよ、
間違いなく子どもは人格的に完成していない。

学校は子どもたちの人権を語りながら、
一方で子どもたちを未熟で不完全な存在として断じている。

「多くの人がいい会社に就職することを目指そうとするのか?」というと・・・
それは、学校の教育制度に問題があると言えるからです。

学校というのは、
小学校から始まり、長いと、
大学まで進学するわけですが・・・
学校教育を受けていく過程で、
会社に就職するのが当たり前になっていくわけです!

では、学校教育を受けていく中で、
「どうして会社に就職することが当たり前になってしまうのか?」について、
説明します。

全員が同じ勉強をさせられるから
学校教育は基本的に、
小学校に入学してから始まるわけですが、
入学した瞬間から授業が始まりますよね。

小学校の場合、
学校の授業で教えられることは、
国語、算数、理科、社会・・・、などの
科目を教えられていきます。

そして、中学、高校、大学と進学をしていくにつれて、
高度な科目を勉強していくようになるわけですが、
学校に通う人全員に対して、
同じ科目を教えていきます。

もちろん、学校に通う人全ての人に、
平等に学習させることは大切だと思います。

しかし
このような教育スタイルであれば、
全員が一定の教育内容を勉強することができるわけですが、
個々人が何か突出したスキルを磨く機会がないわけです。

学校というのは、
全員が同じようなことを勉強していき、
分け隔てなく学力をつけてもらうような形になっているわけです。

裏を返せば、
「突出したスキルを身につけてもらっては困るような意味合いがあるのでは?」と、
個人的に思えてしまいます。

確かに、何か突出したスキルを持っていれば、
会社員として働かずとも、
突出したスキルを活かして、
自分1人で生きていくことができています。

このように、学校というのは、
与えられた科目だけを教わっていき、
自分の中に秘められた、
得意なスキルを伸ばす機会がないわけです。

なので、学校に通う全ての人に、
全く同じ科目を勉強させるというのは、
1つ原因として考えられるかと思います。

受動的な学習スタイルが展開されているから
学校教育というのは、
基本的に「受動的」な学習スタイルになっていますよね。

小学校から、
今まで通ってきた学校を振り返ってもらうとわかると思いますが、
基本的に授業というのは、
「先生が壇上のまで話をし、
それを生徒が椅子に座って、話を聞く」というスタイルです。

なので、学校というのは、
座学をベースとした「受動的」な授業が展開されていると言えるわけですね。

ただ・・・
生徒に対して、
本当に勉強を理解して欲しいのであれば、
座学では学習しづらいですよね?

おそらく、
「先生が一方的に話すような学習スタイルで、
勉強したことが頭に残っている」という人は、
かなり少ないかと思います。

それに、学習というのは本来、
受動的ではなく、能動的に学習した方が、
身につくものなんですよね。

能動的に学習するというのは、
先生が壇上の前に立って、
ただ単に授業の内容を話すのではなく、
生徒同士で、
授業時間で学びたいことを話し合い、
その内容について、教科書を見ながら、
自主的に勉強していくようなスタイルです。

このように、
能動的な学習をしていくことができれば、
自分の頭に勉強したことが定着していき、
自主的に勉強していくので、
問題解決能力も高まっていくわけですね。

しかし、
学校では、能動的な学習がほとんど行われないので、
問題解決能力が向上しないです。

それに、問題解決能力が向上していかなければ、
何も考えずに、ただ漠然とテストの点だけを取りにいき、
いい学歴を取得して、
いい会社に勤めようと自然に思えてしまうわけです。

このことから、
学校で受動的な授業が展開されるのは・・・

生徒自身が主体的に考えるという力を弱らせ、
将来のことについて、何も考えないで、
会社員として働かせるようにするためです。

学校では集団で行動させられるから
必ずクラスというものを用意し、
集団で行動させます。

確かに、
日本では集団で行動できることを重要視しており、
チームプレーや協調性といったものを、
大切にするところがあります。

もちろん、
集団での過ごし方や協調性の大切さを学習することは、
とても大切です。

ではなぜ、
「学校では常に、
集団行動を重視するような教育方針を立てているのか?」というと・・・
周りの人に合わせようという考えを、
身につけさせるためだからです。

そうすることによって、
「独立して働きたいけれども、
みんなは会社員として働く道を選んでいるから、
やっぱり自分の会社員として働こう」などと考える人が、
多くなるわけですね。

なので、こうした集団行動を強要させる教育は、
「周りと同じように、
会社員として働けと言っているようなもの」だなと、
個人的に思います。

学歴が求められるから
今の世の中では、
社会全体が学歴を高く評価していますよね。

そのため、いい高校に行き、
いい大学に行くことが、
世の中で高く評価されると思い、
勉強をしていくわけですよね…。

確かにいい学歴を持つことができれば、
会社に就職する際には、役に立つかと思いますが・・・

しかし
いい学歴を持つことを目的として勉強してしまった場合、
それはいわば、
将来会社員として働くことが前提になってしまっています。

もちろん、学校の勉強を頑張ることが、
悪いわけではありません。

学歴欲しさに勉強をしたとしても、
その先は、過酷な労働が待っているだけです。

このように、学校全体は、
いい学歴を持つことを推奨しているわけですが・・・、

実は、人生において一番大切なことを、
学校で勉強する機会がないんです。

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