いいかげん「学校信仰」「学校宗教」から目覚めなさい

学校不要論

学校に行っていない我が子をずっと見ていると、なにか時間が止まってしまったような、停滞しているような感覚に襲われるかもしれません。何も変化が見られないと、「このままじゃ駄目だ」という焦りもあるでしょう。「この先大丈夫なんだろうか」という不安もあるでしょう。

そういった焦りや不安から、親御さんご自身が感情をコントロールすることが難しく、「本当だったらこうしてあげた方がいいんだろうけど、どうしてもできない・・・」と、思ったように子どもをサポートできずにいる場合が本当に多いです。
しかしその焦り、よくよく考えてみると、背景に『学校信仰』というものが潜んでいるかもしれません。

「子どもは学校に行かなければならない」という学校に対する強いこだわりを学校信仰と呼ぶことがあります。
学校に行かないと子どもは成長しない。

学校に行かないと子どもは社会に出られない。
そういった考えも、この学校信仰の中に含まれるのではないかと思います。

子どもが学校に行っていないよりも、学校に行ってくれていた方が、親として安心なのは言わずもがなです。しかし、ここで「学校に行かないと人は成長しないのか?」と少し考えてみていただきたいのです。

理屈の上では、学校に行ったら子どもは成長するのであれば、中学高校大学を出た人はみな立派な人のはずです。しかし実際には、学校に休まず行った人の中でも、問題を起こす人もいれば、罪を犯す人もいます。学歴はあってもモラルのない人もいるでしょう。制度として学校というものがあり、そこに行くのが当たり前のようになってはいますが、成熟した大人になるために必要な学びを学校で経験するかしないかは不確定ではないでしょうか。

学校のない時代・文化の人々はどうなのでしょうか?
たとえば未開の土地の人々等、そういった人は、ちゃんとした大人になっていないのでしょうか。学校だけが子どもを成長させるとは限りませんし、学校に行っていない子どもが成長しないとも限らないでしょう。みんなと同じことをやっていないと成長しないなんて決まりはありません。

「学校に行かないと子どもは成長しない」と思っていると、学校に行っていない子は成長が止まっていることになるわけですから、それは焦りますよね。「学校に行かないと子どもは成長しない」という考え、裏を返せば「子どもが成長するのは学校に行っているからだ」という考えは、あまりにも学校に依存しており過大な期待を寄せています。

学校信仰を持つ前に、各々の大人が、
「子どもが幸せに暮らせるようになるためには、どんな風に成長する必要があるのだろうか」
「成長のためには何が必要だろうか」
「幸せって何だろうか」
「人として大事にすべきことは何だろうか」
「成熟した大人とそうでない大人の違いは何だろうか」
このような問いを考え、答えを持つ必要があるのではないでしょうか。

これまでの「やらされている押しつけ教育」では、個の確立は不可能です。
これからは、個人が自分のやりたい学習内容と自分に合った方法を選択する時代です。
子どもはもちろん、大人だって私たち一人ひとりには、それぞれ最適な学習方法があるのです。
どこで学ぶかではなく、誰と学ぶか何を学ぶかが大事です。

個人の「幸せ」を生み出すためではなく、「”社会で働くことができる人間”を育てる」
そんな「個人を尊重しない」現在の教育システムに嫌気が差した少年は、学校を9歳で退学。自らの教育システム「ハック・スクーリング(hack-schooling)」を生み出しました。

もう、ではなく、とっくに、です。
既存の学校だけが全てという考え方は、いい加減に止めたほうがいいですね。
というか、賢い子どもは自ら学びの仕方を身につけ、社会のどこかに所属することを止め、自らの力で未来を切り拓きはじめています。私の目指すところもそこです。

狭い世界で、決められた限られたことしかできない(やらされる)学校で、個々の興味・関心に応じた学習をさせることは不可能です!!
だから、子どもたちはいろいろな形でメッセージを発しているのです。

いじめ、不登校、校内暴力などなど、そのほとんどは学校教育制度と教育内容や教員の対応を含めた学校環境の不備によって発生しています。それを小手先や力づくで押さえつけようとすればするほど歪は大きくなっています。
その本質部分を変えないまま、無理やり子どもたちを枠の中に閉じ込めることがいかに非人間的なことか、誰が考えても分かります。

だからこそ、多様な学びの場を数多く作っていくことが必要なのです。
いいかげんに「学校信仰」「学校宗教」から目を覚ますべきです。

そもそも学校教育の目的と実際にやっている(やらせている)ことが乖離しすぎています。
海外の教育についても受け止め方と価値観も違いますので、一概にどの国がいいともいえません。
どれを選ぶかは子ども自身が持っている権利です。

しかし、日本の学校教育は「信仰」としかいいようがないです。
日本の画一的な教育はもう、限界が来ている

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